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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

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第28回 植民地台湾の阿片根絶の実際

劉明修 著『台湾統治と阿片問題』(山川出版社)

 阿片関係の読書を続ける中でずっと気になっていたのは、「日本の植民地だった台湾で、阿片はどのような経過をたどって根絶されたのか」ということだった。後藤新平(1857〜1929)が打ち出した漸減策が功を奏したとは良く言われるが、本当にそうだったのか、なにか裏はなかったのか――それは同時に星新一が『人民は弱し 官吏は強し』(新潮文庫ほか)で描いた「果敢なベンチャーだった星製薬が国ぐるみのいじめで破滅する」という構図がどの程度の正当性をもつのかとも関わってくる問題だ。
 そこでみつけたのがこの『台湾統治と阿片問題』。ここまでの読書で溜まった疑問の多くが解決する好著だった。
 著者(1937〜2006)は台湾出身の台湾近代史の研究者。東京大学でこの本の基礎となる論文で博士号を取り、後に日本国籍を取得して伊藤潔という名前になり、二松学舎大学や杏林大学に勤務した。

 日清戦争(1894〜1895)に勝利したことで、日本は清国から台湾を植民地として獲得した。幕末に阿片戦争の経緯を知った徳川幕府、そして明治政府は、日本への阿片の流入を徹底して取り締まる政策をとっていた。そのことを知る台湾の住民は、日本の植民地になることを知って各地で武装蜂起した。「我々に阿片は不可欠だ。阿片をよこせ」というのである。
 内閣総理大臣であった伊藤博文(1841〜1909)は 初代台湾総督の樺山資紀(かばやま・すけのり、1837〜1922)に阿片の厳禁を指示したが、とても禁止できる状況ではなかった。
 伊藤博文は、内務省衛生局長だった後藤新平に意見書の提出を命令。この意見書に、後に漸減策と呼ばれる政策が記載されることとなった。阿片を専売にして登録した中毒患者にのみ販売し、新たな中毒者の発生を防ぎ、50年ほどかけて阿片中毒者を根絶するというものだ。
 1896年2月3日、漸減策で閣議決定。ここに日本の台湾における阿片政策が定まった。
 後藤の意見書は、具体的な施策や法律に至るまで書いてあった。ここで面白いのは、専売によって上がった利益は台湾の衛生環境向上のための特定財源とするという構想であること。つまり、後藤は阿片の収益が「手軽に手に入る財源」として行政機構を毒することを懸念して、ちゃんと対策も考えていたのだ。
 が、これは実施されなかった。

 台湾総督府衛生顧問に就任した後藤新平の指揮下、日本は台湾に、生阿片を阿片煙膏と呼ばれる「吸う阿片」に加工する工場を建設した。近代的な大量生産ラインを組んだので、阿片の加工コストは下がり、台湾総督府にはかなりの金が入ることとなった。
 本書は、日本の台湾経営における阿片漸減策の意味を3つだとする。まず、「阿片をよこせ」の台湾住民の懐柔。次に、専売による利益で台湾総督府は台湾の産業振興の資金を得た。さらに、阿片専売の特権を一部の台湾人に回すことで、台湾人内部に協力者(御用紳士という)を作り、治安維持に役立てた。植民地経営手法としては、悪くないといえるだろう。
 阿片の輸入商社として、台湾総督府は三井物産と英サミュエル商会を選定した。後にサミュエル商会が撤退したので、三井物産の独占となった。そこに1917年以降、星製薬が割り込んだ。この三井との確執は、後の星製薬の苦難と関係してくるのかも知れない。

 漸減策により、20万人ほどいた台湾の阿片中毒患者は確かに減り始めた。
 ところが阿片中毒者が減ると、専売からの利益が減り、阿片消費量が減るので、せっかく整備した阿片加工工場が遊休ということになる。では何をすべきか。
 ここでなんということか、台湾からの加工阿片の輸出という話が出てくるのである。

 1906年、台湾総督府は関東州(中国大陸)に阿片煙膏を輸出。その額は3万8356円。ただし、現地が「台湾の阿片は味が悪い」と嫌がったので、輸出はこの年だけで終わった。
 台湾総督府の阿片輸出はこれだけに終わらなかった。1915年から18年にかけての4年間は、青島とマカオに阿片を輸出。4年間で、青島には70万6350円、マカオには168万610円。結局、台湾総督府は1906年と1915年〜1918年に合計242万5316円を阿片煙膏の輸出で稼いだ。
 阿片の販売網はそう簡単に構築できるものではない。つまり、前々回のこのコラム[*1]で取り上げた『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』に記載されていた青島で陸軍がさばいた阿片は、台湾総督府が正式に輸出したものだった可能性が高い。つまり単なる陸軍の暴走ではなく、国ぐるみの阿片輸出だったということである。台湾総督府はかなり強い独立した権限をもっていたので、日本政府の中枢がどこまで関知していたかは分からないが、台湾総督府が日本政府の組織である以上、国家による輸出と言って構わないだろう。
 本書によると、1918年以降は、国の輸出から民間の密輸へと移る――ということなのだが、たぶん民間といっても軍がかなり関与していたのではなかろうか。そしてその阿片も、どうも台湾から輸出されたものだった可能性は否定できない。

*1 https://www.shokabo.co.jp/column/matsu-26.html

 本書は学術書なので証拠のないことは書かない、断定しないという筆致を貫いている。それでも読んでいくと明らかに怪しい点が出てくる。
 利益確保のために台湾総督府は、生阿片から粗製モルヒネの抽出を開始した(本書は断定していないが1904年頃からだったらしい)。最上級の阿片煙膏のモルヒネ含有率は、当初11%程度だったものが1912年には8〜8.5%に下がった。これは台湾総督府の絶対の極秘事項だった。ちなみに含有率が下がっても、中毒者からはクレームが出なかったとのことだ。
 つまり、台湾総督府は阿片専売で利益を得て、さらに抜いた粗製モルヒネでも儲けていたのである。ちなみに1900年から1918年にかけて、阿片煙膏専売価格は6倍に値上げしている。
 粗製モルヒネはどこにどんな形で販売されたのかは、本書に記載されていない。多くは医療用だったと思われるが、おそらくそれだけではないだろう。
 この粗製モルヒネに目を付けたのが星一(1873〜1951)率いる星製薬だった。第一次世界大戦勃発によりドイツからの医療用精製モルヒネの供給が途絶する。そこで星製薬は独力でモルヒネ精製手法を開発し、後藤新平を動かして台湾から粗製モルヒネを独占的に払い下げを受け、医療用の精製モルヒネを製造販売するようになった。
 さらに星は、台湾総督府に、原料をモルヒネ含有率が高い(15〜17%)トルコ産阿片に切り替えるように進言し、採用された。
 トルコの阿片は「味が悪い」ので値段が2〜3割安かった。原料も安くなって専売からの収益だけでなく星製薬経由の精製モルヒネも売れて、台湾総督府の財政はもうウハウハ状態である。ちなみに台湾は1914年に、日本本国からの資金援助なしに財政を維持できる財政独立を達成している。

 このような日本の阿片政策とは別に、国際的には阿片禁止の枠組みが徐々に形成されていった。転回点は、1898年にアメリカがフィリピンを植民地にしたことだった。フィリピンへの阿片の浸透に対して、1906年にセオドア・ルーズベルト大統領が強力な禁止令を発布。同時に国際的な反阿片の枠組みを作ることを提唱したのである。
 アメリカの努力は第一次世界大戦後に、阿片取り引きを規制するハーグ国際阿片条約の批准という形で実ることになる。
 これにより「生産のイギリス」「密売の日本」が国際的に追及される立場となった。
 18世紀以来の積もり積もった旧悪を糾弾されると予期したイギリスは、徹底して日本に責任をなすりつけようとして立ち回った。なにしろロイターをもっていて国際的な通信網を握っているから情報戦はお得意だ。1919年2月14日、ニューヨークタイムズに日本政府機関が阿片を中国大陸に密輸しているとの記事が掲載された。これは大スキャンダルになり、日本でも原敬内閣の攻撃に使われ、さらには関東州を管轄する関東庁の阿片を巡る汚職事件「関東庁阿片事件」の露見にまでつながった。
 イギリスに対抗して、日本は国際的に関東州から台湾へと視線をそらす作戦を展開した。「台湾ではきちんと阿片中毒を根絶しつつあります」と国際的に訴えたのだ。「台湾では真面目にやってますよ」とアピールした結果、日本は台湾において本気で阿片中毒根絶に向けて動かなければならなくなっていった。
 台湾の経済事情の変化も、阿片根絶を後押しした。1920年代後半になると、台湾経済の発展と阿片中毒者の漸減により台湾財政における阿片専売の収益はかつてよりもずっと縮小しており、また、台湾の工業が発達するにつれて「中毒者ではない労働者」への需要は増えていた。つまり台湾総督府にとっても「経済発展のためには本気で中毒者根絶を」と考えるお膳立てが揃っていた。

 1928年、台湾総督府は漸減策の根拠となっていた阿片令を改正。阿片吸引により厳しい制限をかけると同時に、久しぶりの阿片中毒患者の登録を行った。密吸引者のすべてを網に掛けるためだ。2万5527人が登録した。
 が、これが台湾人には「さらに阿片を供給して、台湾人を阿片漬けにするつもりか」と受け取られ、激しい反対運動が展開することになった。33年を経て、かつては「阿片をよこせ」で武装闘争を展開した台湾人は、今や「阿片漬けにするつもりか」で政治闘争を展開するまでになっていた。

 同じ1928年、イギリスは国際連盟に阿片問題調査を提案した。日本の悪事を世界にばらしてイギリスに向かう非難を日本に向けようとしたらしい。ところが、日本もこの提案に乗った。「逆にこの機会に、台湾の漸減策をアピールして、日本に非はないところを世界に見せつけてやれ」というわけだ。
 1930年1月、日本は、突如台湾に阿片中毒患者治療専門施設の阿片矯正院を設置した。当初は「ほら治療してますよというところを国際連盟の調査委員に見せればOK」ぐらいのことだったらしい。
 が、ここの実質的責任者となった杜聡明(1893〜1986)という人物が、台湾の阿片根絶に向けて大きな役割を果たすこととなった。杜聡明は京都大学医学部に学んだ医師で、阿片中毒者の治療には禁断症状の緩和が重要と見抜き、塩酸モルヒネを使った禁断症状を出さない脱阿片治療法を確立した。
 杜聡明の活躍により、台湾における漸減策は、「自然減を待つ」から「積極的に中毒者を治療して減らしていく」と方向転換することになる。彼が三期にわたって実施した阿片中毒者の治療により、日本敗戦後の1946年6月10日、最後の中毒者の治療が終了し、台湾の阿片は根絶された。
 最後の中毒者は、陳桂英、女、26歳、と記録に残っている。
 杜聡明は、1968年12月、日本政府より勲二等瑞宝章を授与されている。

 読んでいて何度も「そういうことだったのか」と膝を打った一冊であった。

 「後藤新平の漸減策で台湾の阿片は根絶された。日本偉い」的な言説は誤りと断言していいだろう。漸減策は、確かに阿片根絶に向けた最初の一歩だった。しかしながらその後の日本は、むしろ阿片の利益に目が眩んで右往左往していたのである。
 そこに国際情勢の変化が影響し、何よりも杜聡明というしかるべき能力をもった人物が、しかるべき地位に就いたことで、はじめて台湾の阿片は根絶されたのであった。


【今回ご紹介した書籍】 
近代日本研究双書 台湾統治と阿片問題
  劉明修 著/254頁/定価(本体2398円+税)/1983年8月刊行/
  ISBN 978-4-634-28030-4/山川出版社(版元品切れ中)


「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2017
Shokabo-News No. 333(2017-3)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在、日経ビジネスオンラインで「宇宙開発の新潮流(*1)」「介護生活敗戦記(*2)」を、「自動運転の論点」で「モビリティで変わる社会(*3)」を連載中。主著に『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』などがある.
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura
*1 http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20101208/217467/
*2 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/030300121/
*3 http://jidounten.jp/archives/author/shinya-matsuura


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