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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第30回 阿片を巡る読書の補足――覚醒剤と音楽、そして水爆

   小倉朗 著『自伝 北風と太陽』(新潮社) 
   川井龍介+斗ヶ沢秀俊 著『水爆実験との遭遇』(三一書房)

 星一から始まった阿片に関する読書だが、今回はその補足というか、覚醒剤についての話である。阿片をキーワードに本を読んでいくと、どうしても覚醒剤の話も引っかかってくる。その中でも面白そうな話を二つピックアップしてみることにする。

 覚醒剤――その実体はメタンフェタミン、あるいはアンフェタミンという物質だ。脳内の神経伝達物質であるノルアドレナリンとドーパミンの分泌を促進し、分解を阻害する作用があり、服用者は「頭がすっきりする、疲労が取れる」と感じる。
 このうちメタンフェタミンは1893年に薬学者の長井長義(1845〜1929)が合成に成功した、日本起原の薬剤だ。覚醒作用があるので、うつ病などの精神疾患の治療に使われ、1941年、つまり日米開戦の年から、長時間の任務に就く軍人のための疲労回避のために大日本製薬(現・大日本住友製薬)が「ヒロポン」の製品名で大量生産するようになった。ちなみに「疲労がポンととれるからヒロポン」という説があるが、実際にはギリシャ語の「ヒロポノス(労働を愛する)」からの命名なのだそうだ。
 戦争中に大量に作られ本土決戦用に備蓄されていたヒロポンは、敗戦後の日本に大量に出回ることになった。
 当時は、ヒロポンに依存性・習慣性があり、乱用により幻覚や意欲低下などの副作用が出ることは、一般に知られていない。流通にも制限がなく、薬局で普通に購入することができた。ヒロポンには経口錠剤と注射用アンプル剤とがあり、注射のほうが効きが良かったという。「徹夜の友」として、ヒロポンは社会に浸透し、やがて大量の中毒患者が発生することとなった。ついに1951年に覚せい剤取締法が制定されて、その流通に厳密な制限が課せられたが、現在までその害は完全に根絶することなく社会を蝕んでいる。

 今回取り上げる最初の一冊は、作曲家の小倉朗(おぐら ろう;1916〜1990)の自伝『北風と太陽』だ。小倉は、フランス風和声の模倣からスタートし、やがて「オグラームス」とあだ名されるほどドイツ音楽に傾倒、戦後はハンガリーの作曲家バルトーク・ベラ(1881〜1945)に触発されて日本民謡や日本語のイントネーションを生かした作品を作曲した。『北風と太陽』には、さまざまな音楽家との交流がでてくるが、その中に、覚醒剤を使っていた作曲家が登場する。

 尾高尚忠(おたか ひさただ;1911〜1951)――指揮者・作曲家で、遺作となったフルート協奏曲はいまも音大フルートの学生にとって一度は取り組むべき名曲だ。新交響楽団(NHK交響楽団の前身)の運営に奮闘するも、39歳で死去。NHK主催の、すぐれた管弦楽作品の新作に与えられる「尾高賞」は、彼の名にちなむものだ。
 その死は、交響楽団運営に献身するあまりの過労死だったという。が、小倉朗は、こんな光景を目にしていた。

そこ(松浦注:新橋の「貨物船」という飲み屋)に、尾高尚忠がいつも主のようにたむろしていた。その大きな体と、体にふさわしい大きな顔、その大きさからしてすでに大人の風格があり、時まさに指揮者兼作曲家としての令名が高い。その彼が悠々とこれ(松浦注:密造どぶろくのこと)を嗜む。そして合間に、鼠色したハンケチに包んだ携帯用の注射器の箱をおもむろにポケットから取り出し、蓋を開いて針やら何やら細々と机の上に並べ、何の薬か、透明な液体の入ったアンプルを切って、セットした注射器に吸い込ませ、腿を開いてブッスリと注射しては、また悠々と飲んでいた。
後、彼の急死を知る。突然、針ダコの出来たあの腿の皮膚の色が僕の目に浮かんで消えた。
  (『北風と太陽』p.195)

 死の直前、尾高はフルート協奏曲をほぼ完成させ、同時に交響曲第1番の作曲に取り組んでいた。第1楽章は完成し、第2楽章を作曲しているところで、彼の命は尽きた。なんということか、この未完の交響曲第1番が瑞々しさに溢れた大変な名曲なのである。ヒロポンの常用が尾高の寿命を縮めた可能性は高いだろう。激務に邁進する尾高が、「疲労回復剤ヒロポン」の害に関していくらかでも知識を持っていたならば――我々は覚醒剤により、人類の遺産となるほどの名曲を失ったのだ。

 尾高の記述に続いて小倉は、自らもヒロポン錠剤を試してみた経験を書いている。「その爽快さ! まるで天下を取ったようである。」「特攻隊用にはまさにうってつけと思ったが、劣等感に苛まれる小心翼々にもこたえられない薬と見た。」(同書p.196)。ちょっと目にはヒロポンを賛美しているかのように読めるが、小倉はその後覚醒剤に溺れることなく、74歳まで生きた。

 ちなみに、後に世界的大作曲家となる武満徹(1930〜1996)も、この時期に覚醒剤を使った経験があることを告白している。鈴木博義との合作であるバレエ曲「生きる悦び」(1951)の作曲中、とても間に合わずに徹夜が連続した時のことである。

もうほんとうにめちゃくちゃでしたね。毎日が徹夜で、数時間しか寝ていないから、とても身体がもたないんです。(中略)町の医者にいって、覚醒剤のヒロポンを打ってもらったんです。いまじゃとても考えられないことだけれど、そのころはその辺の医者に頼むと打ってくれたんです。(中略)だけどその副作用で、突然よだれが出てきて止まらなくなったり、幻覚を見たりしたんです。ピアノの上のゴミが急にウワーッと動き出したりするんです。気味が悪かったな。
  (立花隆著『武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋刊、p.151)

 「生きる悦び」の初演は、1951年11月。武満が覚醒剤を使ったのはその直前、おそらく9月か10月のどこかだろう。覚せい剤取締法の施行が1951年7月末なので、この時点でヒロポンの使用は非合法化されていたわけだが、末端の町医者まで徹底していたわけではなかったようである。

 もう一つの話は、もう少しセンシティブな事柄であり、同時に私の想像も入り、ヨタ話に近くなってくる。

 1954年3月、第五福竜丸事件が起きた。マーシャル群島のビキニ環礁で米国が実施した水爆実験「ブラボー」によって発生した放射性物質を、付近で操業していた漁船の第五福竜丸が浴びてしまい、乗組員23名が被爆した事件である。この事件では、同年9月に久保山愛吉無線長が死亡した。直接の死因は肝臓障害。医師団はこの死を「放射能症」と発表し、反核の世論は沸騰した。
 しかし現在では、この死は放射線障害ではなくC型肝炎によるものと推定されている。
 まず、米国は第五福竜丸と同時に被爆したロンゲラップ環礁の住人の長期間追跡調査を行っている。白血病、甲状腺がんは発生したが、肝臓障害を患った者はいない。
 次に、第五福竜丸乗組員の長期追跡調査では、その後肝臓疾患を患った者が多数発生している。これは、彼らに治療の一環として大量輸血が行われた結果、当時は知られていなかったC型肝炎ウイルスに感染したものと推定されている。
 そして、久保山氏は、被爆後、診察を受けた時点で肝臓障害の兆候を示していた。これは、現在の知見からすると、被爆以前に久保山氏が肝炎ウイルスに感染していた可能性を示唆する。実際、現在では久保山氏の直接の死因は放射線障害ではなく、C型肝炎ウイルスによる肝炎と推定されている。

 では、いつどのようにして久保山氏はC型肝炎ウイルスに感染したのか。当時は注射針の使い回しが当たり前に行われており、集団予防接種などでも肝炎ウイルスの感染が起きていた。あるいはそのような経緯だったのかも知れない。しかし――。

 ここで、2冊目の本『水爆実験との遭遇』だ。この本には、長らく第五福竜丸の乗組員の健康診断を続けた放射線医の熊取敏之(1921〜2004)へのインタビューが収録されている。

その当時は、使い捨ての注射器などなかった。だから肝炎ウイルスの感染 がなかったとは僕は言いません。放射線だけとはちょっと言いにくいかもしれない。輸血はしたけれども、血液をもらった人を調べても肝炎のよう なものは出てきていない。だからといって否定はできない。もう一つは、プライベートなことで言いたくはないのだけれど、久保山さんの親類の中で、薬物の治療を受けていて肝炎になった人が二人ほどいるんだよね。外からの(影響)に弱いということがあったのかもしれない。でもこれはわかりませんよ。
 (『水爆実験との遭遇』p.167)

 本書の出版は1985年なので、1989年に発見されたC型肝炎ウイルスには触れられていない。当時は、輸血で感染する「非A非B型肝炎」があるということだけが分かっていた。
 が、なんだろう、この奥歯に物が挟まったようなあいまいな物言いは。
 注目すべきは「プライベートなことで言いたくない」という前置きの後だ。「久保山氏の親族で薬物の治療を受けていて肝炎になった者が2名いる」。言いたくない「薬物の治療」とは? そして、そのことがなぜ久保山氏の肝炎に関係するのか。

 ここからは私の想像となるので、注意してほしい。
 「薬物の治療」とはなんらかの薬物中毒の治療だったのではなかろうか。そして熊取医師は、親類の影響で久保山氏もなにかの薬物を使ったことを疑っているのではなかろうか。それも注射によって。
 注射を使う薬物としてはヘロインもある。とはいえ敗戦後の日本でもっとも一般的だったのはヒロポンだった。漁師という長時間の激務を伴う職業からしても、久保山氏が覚せい剤取締法の施行以前に、親類の誘いでヒロポンの注射を試してみた可能性が、そしてその際に注射針の使い回しで肝炎ウイルスに感染した可能性があるのではなかろうか。

 今となっては事実関係を確認することはほぼ絶望的だろう。しかしながら、もしもそうならば、敗戦後に放出された軍需物資である覚醒剤は、肝炎ウイルスと水爆を介して、日本の戦後史を大きく変えたということになる。久保山氏が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と言い残して死亡したことにより、反核兵器の世論は一気に盛り上がった。原水爆禁止の署名運動は同年12月までに2000万人もの署名を集め、翌1955年8月に、広島で第1回原水禁世界大会が開催された。
 ところが、そのきっかけとなった死をもたらしたのが実際には肝炎ウイルスであった(ここまではほぼ確定だ)。そしてもし、ウイルス感染の原因が当時は合法であった「疲労のとれる薬」の注射で、注射針を使い回した結果だったなら――。

 想像でものを言うのはここまでにしよう。はっきりしているのは、未来は決まった道筋をたどるものではなく、時に恐ろしく小さなことが大きな結果を生むものだ、ということである。


【今回ご紹介した書籍】 
自伝 北風と太陽
  小倉朗 著/238頁/1974年刊行/新潮社/版元品切れ中

水爆実験との遭遇 −ビキニ事件と第五福竜丸−
  川井龍介+斗ケ沢秀俊 著/240頁/1985年7月刊行/三一書房/
  ISBN 978-4380852145/版元品切れ中


「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2017
Shokabo-News No. 337(2017-7)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在、日経ビジネスオンラインで「宇宙開発の新潮流(*1)」「介護生活敗戦記(*2)」を、「自動運転の論点」で「モビリティで変わる社会(*3)」を連載中。主著に『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』などがある.
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura
*1 http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20101208/217467/
*2 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/030300121/
*3 http://jidounten.jp/archives/author/shinya-matsuura


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