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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

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第42回 日本が愚かな戦争に突入した「本当の理由」

牧野邦昭 著『経済学者たちの日米開戦』(新潮選書)

『経済学者たちの日米開戦』カバー  この連載の31回で片山杜秀著『未完のファシズム』※1を取り上げた.大正から昭和にかけての軍人たちの合理的思考から、玉砕、本土決戦に至る狂気がどのようにして絞り出されたかが、冷静に分析された本だった。
 ※1 https://www.shokabo.co.jp/column/matsu-31.html

 が、なおも謎が残る。いかに狂気が蓄積されていたにしても、「いったん戦争を始めたら経済規模の小さい日本は必ず負ける」という認識は共有されていたのである。それなのに、なぜ必敗の戦争に自ら突入していったのか。
 今回取り上げる『経済学者たちの日米開戦』は「最終的な開戦の決心がどの時点でどのようなプロセスで形成されたか」に迫る一冊である。
 といっても、主題は「開戦の決心が形成されるプロセス」ではない。本書の主題は陸軍省戦争経済研究班──通称秋丸機関という陸軍の組織と、当時の経済学者、なかでも後に東京大学教授となり、敗戦後の経済復興では傾斜生産方式を提案した有沢広巳(ありさわ ひろみ:1896〜1988)の共同作業を追ったものだ。彼らは来たるべき戦争遂行に当たっての、世界各国の経済力の数値的評価を行っていた。
 というわけで、本書は秋丸機関の誕生、研究、出した報告書、報告書を国の枢要がどのように受け止めたかを淡々と記述していく。その上で、最後の最後に「なんで負けるとわかりきった戦争を始めてしまったのか」という謎への回答が提示されるのである。
 著者は、摂南大学准教授で経済思想史を専攻する歴史学者。本書で、読売・吉野作造賞を受賞している。

 来たるべき総力戦に向けて世界各国の経済力を定量的に評価する──このような任務を持つ秋丸機関を統轄したのは、昭和14年(1939年)当時、日本陸軍主計中佐だった秋丸次朗(あきまる じろう:1898〜1992)だ。秋丸は陸軍高等経理学校をトップの成績で卒業し、東京帝国大学経済学部に派遣されて勉強を重ねた経理畑の秀才であった。が、秋丸機関を発案したのは彼ではない。岩畔豪雄(いわぐろ ひでお:1897〜1970)が設立し、そのトップを秋丸が務めるように命じたのである。そう、本連載の第27回※2にも登場する岩畔豪雄だ。諜報の専門家を養成する陸軍中野学校、陸軍の必要な物資を調達する専門商社の昭和通商、新たな科学的知見に基づく兵器を開発する陸軍登戸研究所をそれぞれ設立した、日本陸軍諜報の大立者である。
 ※2 https://www.shokabo.co.jp/column/matsu-27.html

 著者は、秋丸機関設立の経緯からいったん遡り、秋丸次朗の経歴を追っていく。日本陸軍は満州国の運営に深く関与しており、秋丸は陸軍所属の経済の専門家として満州国の経済政策に参加していた。著者は秋丸機関のことを「陸軍版満鉄調査部」と形容している。満州鉄道調査部は、一企業の調査部門を超えた満州国経済を動かすシンクタンクであった。秋丸は満州での経験と人脈を持って秋丸機関を組織したわけである。
 秋丸機関設立に当たって彼は「彼を知り己を知れば百戦殆ふからず」という孫子の一節を念頭に、当代一流の経済学者を集めて可能な限り正確な各国の経済力分析を行おうとする。その網に引っかかったのが、東京帝国大学の有沢広巳であった。
 が、有沢はマルクス経済学の大立者である大内兵衛(1888〜1980)に師事し、マル経を奉じる“アカ”(共産主義者を意味する隠語、時に蔑称として使われた)と目されていた。しかも昭和13年に起きた第二次人民戦線事件(内務省警保局が、非共産党系左派の学者を一斉検挙した事件)で、大内兵衛、美濃部亮吉(1904〜1984)、江田三郎(1907〜1977)などと共に検挙されており、昭和14年当時は起訴されて東京帝国大学を休職中の身であった。
 しかし、そんなことを気にもせず、秋丸は有沢に、機関への参加を要請した。有沢は「自分は起訴中の身だがそれを承知の上ならやります」と返事する。こうして、有沢を中心として、秋丸機関は始動した。

 本書は、安易に結論に飛びつくことなく、秋丸機関の活動を当時の社会情勢を踏まえて分析していく。なかでも近衛文麿(1891〜1945)を中心として活動していた「新体制運動」(総力戦に向けて国家総動員体制を作ろうとした社会運動。日本でファシズムを確立しようとした試み)との絡みは興味深い。昭和14年から15年の時点で、ファシズムは現在我々が抱くような「すべてを国家が管理する恐怖独裁体制」とは認識されていなかった。むしろ「来たるべき総力戦に向けて国家の持つリソースをすべて動員する、総力戦の勝利には必須の体制」と考えられていた。そして大変面白いことに、新体制運動における経済改革の試案である「日本経済再編成試案」は有沢が執筆したものだった。ファシズムは国家社会主義と訳されるが、確かに統制経済という意味では社会主義と通底していたのである。
 が、世間はそうはみない。秋丸機関への有沢の参加は、「陸軍の赤化」と捉えられ、秋丸のところには抗議が殺到した。
 このような経緯から分かるのは、当時の日本陸軍は決して「皇軍不敗」を信奉する愚か者の集団ではなく、柔軟にさまざまな立場の人々を取り入れ、冷静な第三者的な視点から次の戦争に勝つ方法を模索していたということである。『未完のファシズム』が示した当時の軍人たちの理性は、開戦2年前の段階でも十分機能していたのである。

 こうした秋丸機関の活動の実際──今も残る報告書と、その報告書がいつ、誰に向かってプレゼンテーションされたかが明らかになっていく。「今も残る」というのは、その一部は、敗戦時に焼却の憂き目に遭っているからだ。ところがネット時代になり、さまざまなアーカイブの所蔵する資料のカタログがネットで公開されたことにより、あっちにあれ、こっちにこれ、と残存していた秋丸機関関連資料を見つけることが可能になった。著者は、ネット検索を駆使して関連資料を渉猟し、つなぎ合わせることで、秋丸機関の果たした役割を分析していく。
『昭和16年夏の敗戦』カバー  その過程で、一冊のベストセラーが期せずして俎上に載せられる。猪瀬直樹著『昭和16年夏の敗戦』(中公新書)だ。同書は、昭和15年(1940年)秋に組織された内閣総理大臣直轄の総力戦研究所という組織が昭和16年夏に行ったシミュレーションで、「日本必敗」という結果がでたことを追ったノンフィクションだ。猪瀬は、負けることが分かっていたのに日本は同シミュレーションを軽視して戦争に突入した、という構図を提示する。が、本書『経済学者たちの日米開戦』は、総力戦研究所のシミュレーションが官僚育成のための教育的シミュレーションであったことを明らかにしていく。しかもそれは、この時期いくつもの組織で、前提条件を変えて実施された複数のシミュレーションの一つであった。つまり、当時の為政者としては総力戦研究所の得た結果は、単に「諸々の検討の一つ」という位置付けだったというのである。本書は、猪瀬本に言及していないが、さまざまな証拠を提示することで、結果として猪瀬の描き出した構図をほぼ完全に否定している。

 とはいえ、秋丸機関の経済力検討結果も、日本の勝利という構図を描き出せるものではなかった。どう分析しても確実に勝利するという結論は出てこない。
 ここで著者は、二つの重要な指摘をする。従来、秋丸機関報告書は開戦を願う陸軍にとって不都合なものだったので、焼却破棄され、結論は隠匿されたということになっていた。しかし、著者は秋丸機関関係者が当時のメディアで何を話したかを調べ、むしろ秋丸機関の得た結論がそのまま当時の雑誌掲載の座談会などで開陳されていたことを指摘する。つまり秋丸機関の「勝てない」という分析は、当時の軍と政治家、さらには新聞を熟読しオピニオン雑誌を読む国民の有識者層に共有されていたというのである。
 もう一つは、実物の秋丸機関報告書の分析から導き出される報告書の文章のニュアンスである。報告書は「勝てない」と無慈悲に敗北を宣告する筆致ではなかった。「ここがこうなって、ああなって、こういう条件が揃えば、勝利できないこともない」という書き口だったのだ。よく読めばそれは「勝てない。やれば負ける」という意味だが、同時に為政者の側からは「条件を揃えれば勝てる」とも読めるように書いてあった、というのである

 こうして著者は、本書の第5章「なぜ開戦の決定が行われたか」で、日本が負けると分かりきっていた戦争を始めてしまった理由を分析する。それは──ここには書けない。なぜならば、あまりに推理小説的に面白いので、書いたらネタバレになってしまうからだ。現代の行動経済学の知見を駆使して、著者が推定する「日本が必敗と分かりきっている戦争に突入した理由」は、あまりに身も蓋もなく、バカバカしく、そして説得力に富んでいる。これは是非、本書を読んで欲しい。こんなくだらない理由によって300万人が死んだのかと思うと、乾いた笑いしか出てこない。
 その上で著者は、それでは開戦に至らないために、秋丸機関はどのような報告書を出すべきであったかも、同じ行動経済学の知見を利用して描き出す。それは煎じ詰めれば、同じ事実をどのように文章として記述するかという、修辞の問題だ。人間は、自覚するほどに理性的ではなく、むしろ本能や習性に支配される動物であるということを実感する結論である。

 そして、本書を読み終えた時、我々は恐ろしい事実に気が付く。昭和14年から16年の理性ある人々が、この程度の軽くてくだらない理由から、絶対確実と重々知りつつも300万人が死亡する破滅へと転がっていったというなら、このような事は二度三度繰り返すのではないか。そして、今まさに我々は明らかな破滅に向かって転がり落ちているのではないか、と。

 今こそ読むべき本だ。その上で、我々は我々の裡にある獣の部分を直視して、次なる破滅を回避する方策を理性で思考し、実行しなくてはならない。


【今回ご紹介した書籍】 
『経済学者たちの日米開戦 −秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く−
  牧野邦昭 著/四六判変型/270頁/定価(本体1300円+税)/2018年5月発行/
  新潮社/ISBN 978-4-10-603828-0
  https://www.shinchosha.co.jp/book/603828/

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2019
Shokabo-News No. 357(2019-10)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在、日経ビジネスオンラインで「宇宙開発の新潮流(*1)」を連載中。近著に『母さん、ごめん。−50代独身男の介護奮闘記−』(日経BP社)がある.その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数.
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura
*1 http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20101208/217467/


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