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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
裳華房の“古書”探訪(15)

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一戸直蔵 著 『月』 [初版 明治42年]

 今回は天文学の書籍を取り上げます.“忘れられた”科学者,一戸直蔵執筆の『月』です.たぶん「月」をテーマにした日本で最初の本であるとともに,科学の専門家自らが啓蒙書を執筆した,おそらく日本で最初の書籍です[*1].

 一戸直蔵(いちのへなおぞう)は,明治11年(1878年)青森県の生まれ.明治36年に東京帝国大学理科大学星学科を卒業して大学院に進学するとともに,当時麻布にあった東京天文台(現在の国立天文台)に助手として着任.明治38年(1905年)には,アメリカのシカゴ大学附属ヤーキス記念天文台[*2]に私費で留学.そこで変光星観測を行いながら,大口径望遠鏡の威力を身をもって体感し,日本にも大望遠鏡を備えた天文台の建設を説くために,2年で留学を切り上げて帰国します.

 この2年間の留学期間中には,裳華房からサイモン・ニューカム著(書籍表記はニューコンム)『星辰天文学・宇宙研究』を翻訳出版しています(明治39年11月).これがたぶん裳華房から最初に出版された本格的な天文学書です.

 帰国後,一戸は東京帝国大学の講師,東京天文台の観測主任になるとともに,日本天文学会の設立(明治41年)に奔走し,また『天文月報』を創刊して編集主任として健筆を振るいます.ちょうどその脂が乗った時期に書かれたのが,『月』です.

 『月』の目次は以下の通りです.

緒論/月の運動(其一)/月の運動(其二)/月世界探檢(其一)/月世界探檢(其二)/月の地球に及ぼす影響/地球と月との歴史

 4章と5章では“探検”と銘打っているように,当時としてはかなりの数の月面写真を掲載して,観光案内のように月の地形やその生成等を紹介しています.
 また本書の序文で,

余茲(ここ)に説かんとする月は、これと同様な詩的魔力を有する自然の文學書で、余は之を繙(ひもと)く毎に一種の霊光に打たるヽ様な氣がする.

と述べているように,単に月に関する科学的な解説だけでなく,随所に『万葉集』等の和歌や『源氏物語』等の古典,『和漢三才図会』や頼山陽による漢詩,はてはヤングの英詩などの文学作品を縦横無尽に引用し,また太陽熱や潮汐エネルギーの話を挿入したりする等,自由気ままに執筆しています.そういう意味では,現在の目で見ても,かなりユニークな科学解説書と言えるでしょう.

 大正元年(1912年)11月には大幅に増補改訂した第二版を発行.また,本書の翌年(明治43年)には同じスタイルの『星』を裳華房から出版しています.

 余談になりますが,この『月』が出版されたころから,東京天文台の移転問題がもちあがり,アメリカでの体験から都市から離れた山頂への移転を強く主張した一戸は,三鷹(現在の国立天文台のある所)への移転を主張する天文台台長ほか関係者と激しく対立し,明治44年(1911年)11月に天文台を退職して野に下ります.
 アカデミズムのしがらみから自由になった一戸は,Nature誌や Science誌に比肩する雑誌を日本にも,との想いから,大正2年(1913年)1月に月刊誌『現代之科學』を創刊[*3].その発行に協力したのが,裳華房の吉野兵作(社長)と野口健吉(編集長)です[*4].
 しかし,読者層が研究者や知識人に限られた『現代之科學』の売れ行きは芳しくなく,第1巻第6号の発行をもって裳華房は編集・発行から手を引き,7号以降は裳華房は大売捌(現在の取次店)の一社に留まったようです[*5].

 アメリカ留学中から健康を害していた一戸は,大正5年に肺結核を発病し,『現代之科學』発行の苦労がさらに健康をむしばんで,大正9年(1920年)11月27日に帰らぬ人となります.享年42歳.
 1960年以降に国内に建設された大型望遠鏡施設や,1980〜90年代の科学雑誌の隆盛をふりかえってみると,一戸直蔵は,生まれてくるのが50年以上早かったのかも知れません.

 なお『月』をはじめ,一戸直蔵の著作のほとんどは国立国会図書館のデジタルアーカイブで公開されています.

『月[増補改訂第二版]』(国立国会図書館)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935846


[脚注]

 *1 科学史家の中山茂氏は「こうした天文学の啓蒙書はそれまでもしばしば出版されていたが、すべて専門家でない、科学書の著述家によるものであった。レッキとした天文学の専門家が啓蒙書の筆を執ったのは、本邦では一戸直蔵をもって嚆矢とする」と述べている(『一戸直蔵』より).

 *2 ヤーキス天文台をはじめとするアメリカでの巨大望遠鏡の建設について   は,Shokabo-News No.282(2012年12月配信号)に掲載の,「松浦晋也の“読書”ノート 第5回 ジョージ・エラリー・ヘールの「大きいことはいいことだ!」」を参照.
  http://www.shokabo.co.jp/column/matsu-05.html

 *3 昭和6年(1931年)創刊の岩波書店の雑誌『科学』の「創刊の辞」の中で石原純は,『現代之科學』を先達とする旨,述べている.

 *4 『現代之科學』創刊号の奥付には「発行所現代之科學社、発売所裳華房、編輯者野口健吉、発行者吉野兵作」とある.

 *5 『現代之科學』はその後,一戸直蔵,大鐙閣,日本図書出版と発行元を変えながら第10巻まで続いたが,大正11年(1922年)に廃刊した.

※本稿の執筆にあたり,下記の文献等を参考にさせていただきました.記して感謝申し上げます.
・中山 茂『一戸直蔵 −野におりた志の人−』リブロポート,1989年
・原 恵「東京天文台移転事件 ── 一戸直蔵」(「科学朝日」編『スキャンダルの科学史』朝日新聞社,1997年 所載)


『月』
    一戸直蔵 著/菊判/210頁/裳華房/初版 明治42年[1909年]6月


☆記述の誤りなど,お気づきの点がありましたら m-list@shokabo.co.jp まで御連絡ください.


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