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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
裳華房の“古書”探訪【特別編】

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田中義麿 著『基礎遺伝学』

武村政春(東京理科大学) 

 田中義麿著『基礎遺伝学』という本がある。改訂版を含めた最も新しい版は、2008年に刊行された第50版4刷である。その版数からわかるように相当な重版・増刷が重ねられてきたロングセラーで、初版は1951年であるから、じつに半世紀以上にもわたって愛読されてきたことになる。

 今でこそ遺伝学の基本となる物質的基盤がDNAであることは周知のとおりだが、田中著『基礎遺伝学』は、そもそもDNAの振舞いが中心となっているわけではない。むしろ、メンデル遺伝学の正統な系譜を積んで記述される染色体と遺伝との関係は、古きよき時代の遺伝学そのものであると言える。しかしながら、それにとどまらない魅力がこの本にはある。
 僕の手元には2005年の第50版だけでなく、1961年の第13版と、1967年の第18版もある。第13版にはまだDNAの二重らせん構造は掲載されていないが、第18版にはすでに掲載されている。これは、1963年の第14版において「最近遺伝学の進歩」という新しい章が追加されたことによるもので、この版以降、DNAの化学的実体としての二重らせん構造が登場する。一方において、DNAの化学的実体を記述するということは、遺伝子の化学的実体を記述するということに他ならない。1960年代に刊行されたこのあたりの版では、興味深いことに遺伝子の本体(本態)がどのようなものかについて、その概念が過渡期であることを思わせる記述が共存している。1967年の第18版をみてみよう。
 第14(XIV)章「遺伝物質の本態」(1961年の第13版にもすでに存在する)では、遺伝子の本態について、

遺伝子は1分子または数分子より成る粒子であって、ある程度の恒久性を有し、高度の自主性と、増殖性と、突然変異性とを有しているが、電子顕微鏡をもってしてもまだこれを見ることができない。

とある(266ページ)。さらに

最近多くの細胞遺伝学者、化学者は遺伝子の化学的本質がDNAであると考えるようになって来た。

として(268ページ)、DNAの構造が、塩基、糖、燐酸よりなるヌクレオチドが二つずつ対をなしたポリヌクレオチド構造であることを述べている(269ページ)。そして第19(XIX)章「最近遺伝学の進歩」で、

遺伝子の化学的本質がDNAと呼ばれる核酸であることは …(中略)…その化学構造についてワトソン及びクリックの提案による模式が一般に受入れられるに至った。

と述べ(363ページ)、DNAの二重らせんモデルを図として登場させているのである。ワトソンとクリックの二重らせんモデルが発表されたのは1953年だから、『基礎遺伝学』における初出である1963年(第14版)との間には、じつに10年のタイムラグがある。しかし、これは単に反映させるのが遅すぎたというのではなく、「一般に受入れられるに至った」と田中が判断するのに10年かけた、とみなすのが妥当であろう。
 じつは田中の『基礎遺伝学』には、その“前身”となった本がある。1934年(昭和9年)に初版が出た『遺傳學』がそれで、1951年に第8版が出た後、『基礎遺伝学』の初版が刊行されたことからもそれがわかる。『遺傳學』では、「結論(遺傳因子の本質)」の章で「遺傳因子」についての当時の議論が細やかに紹介されており、1950年の第7版に際して加筆された「増補」には、遺伝子の主成分はDNAで、それにあるタンパク質が結合して作られたものであることは間違いない、と記されている。

 改訂、増補を何回も繰り返して作られる教科書には、学問の歴史が埋め込まれている。記述内容の変化は、その事象に対する研究者の考え方の変化そのものである。戦前から戦後にかけて長く読まれてきた教科書としてのみならず、田中の『遺傳學』と『基礎遺伝学』は、その移ろいと共に、日本における遺伝子概念の受容と変容の過程をありありと浮かび上がらせる類稀な科学史の本でもあると、僕はそう思っている。


【今回ご紹介した書籍】

◆『基礎遺伝学』
 田中義麿 著/菊判/340頁/1951年発行/裳華房

◆『遺傳學』
 田中義麿 著/菊判/799頁/1934年発行/裳華房

『基礎遺伝学(改訂版)』カバー [編集部注]
田中義麿先生のご略歴などについては、『基礎遺伝学』をご長男の田中克己先生等が改訂された『基礎遺伝学(改訂版)』(1972年発行)の紹介ページをご参照ください(下記URL)。
https://www.shokabo.co.jp/mybooks/ISBN978-4-7853-5010-9.htm

【武村政春先生の研究室のWebサイト】
https://takemura-lab.azurewebsites.net/main/index

『基礎遺伝学(改訂版)』カバー ※ご執筆いただいた武村政春先生の著書『ベーシック生物学(増補改訂版)』が20201年3月下旬に弊社より刊行されます。
https://www.shokabo.co.jp/mybooks/ISBN978-4-7853-5243-1.htm

☆お気づきの点がありましたら m-list@shokabo.co.jp まで御連絡ください.


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