日本の天文学
(Japanese Astronomy)

世界における天文学の発達と平行して, 日本においても,暦の作成など天文学の最初の応用から, 文明開化に伴う天体物理学の導入時代, そして現在の国際化時代における 国際協力を伴う天文学の新しい時代など, いろいろなエポックを経ながら発達してきました.
ここでは,そのような日本の天文学の中から, 近世の天文学の興隆を述べた小論を紹介します.


近代天文学を拓いた浪速のアマチュア精神

横尾武夫(大阪教育大学)

(西はりま天文台シンポジウム基調講演の原稿より改稿)

はじめに

今回のシンポジウムの皮切りとして貴重な時間を頂いたことを 面映い思いでおります. 今回のホスト役の黒田武彦さん(西はりま天文台台長) がこのようなお題を私に振り当てられたのには, これまでのいきさつがありまして, それからまずお話しておきたいと思います.

もう十数年前になりますか,黒田さんが大阪電気科学館におられたころ, ここにおられる加藤賢一さんたちと「星の友の会」という 科学館所属の団体を創設されました. 当時は館からの援助があるわけでもなく, わずかな会費で機関誌を発行し会合を開き, 世話役も手弁当で駆けつけるというささやかなものでした. この会がすぐ軌道に乗りましたのも, それ以前に黒田さんたちが大阪近辺の天文の研究家や愛好家に 呼びかけ作った「天文研究会」の活動が下地になっていたからです.

星の友の会では「月刊宇宙」という小さな雑誌を発行することになりました. その編集委員の一人として私も参加したのでありますが, 企画の一つとして私が提案したのが「なにわの天文昔ばなし」という連載です. このような雑誌には,地方色を出すこと, 科学史などの文化的広がりが必要だというのが, 提案理由だったと思います. 会員にはそうそうたる方々がおられたので,持ち回りで執筆を依頼し, 江戸期の大坂で活躍した天文学者たちの事績を紹介する連載が始まりました.

さて,連載の記事が積み重ねられていく中で私たちは, その時代の天文学研究が並大抵のものではなく奥深いこと, そして江戸から明治にかけての我が国の近代化の潮流に ものすごく深く関わっていることを改めて悟ったのであります. 連載は3年以上続いたと記憶しています. それで1988年に近畿大学で日本天文学会が行われたとき, 日本天文学会の特別企画として, 「近代天文学の始まりと大阪」という展示会と講演会を, 大阪のグループが中心となって開催したというようなこともありました.

本日は,このような流れの中で私たちが学習してきた事柄を お話しようと思います.

国立天文台のルーツ

歴史を遡ることになりますが, 現在の国立天文台が発足したのは1988年です. その前身は東京大学附属の東京天文台ですが, それを知る人も間もなく少なくなるでしょうね. 東京天文台は,明治初期に 東京大学が帝国大学として発足すると同時に設立されました. 国民が共有する暦と時制を定めることは文明国家の基本であるわけで, いにしえの日本国家成立からこの考え方は引き継がれています. それで江戸幕府には「天文方」というのがあって, これが天文台の前身です. 一方,東京帝国大学の前身はやはり幕府の「開成校」でして, これはさらに「洋学所」「蕃書取調書」などと遡るのです. これらの洋学研究機関は,実は江戸後期に天文方から派生して 生まれてきたものであって, これから言えば東京大学のルーツの方が国立天文台にあるのです.

近代天文学を基に作られた「天保暦」

その天文方は,1842年に天保暦という太陰太陽暦を成立させました. この暦は今の私たちが旧暦と呼んでいるもので, ときどきキッチュなカレンダーに併記されているのを見かけますね. 旧暦というと古風な中国暦を連想させますが, この天保暦はれっきとした近代天文学をもとに作られたものなのです. すなわち,地球が太陽のまわりをケプラーの法則にしたがって回り, 月はパラメータを変えながら複雑な運動をするという 現代の教科書どおりの天文学です. だから新月・満月の時刻はおろか, 日・月食の予報もばっちりです.

江戸末期には幕府も全国の諸藩も, 科学・技術・軍事などの西洋化に狂奔し, 涙ぐましい努力を開始するわけですが, こと天文学に関しては, どの分野よりも一足早く西洋化・近代化を進めていたことに 注目しなければなりません. 幕府天文方はそれだけの実力を持っていたのです. それに至る経緯を知るには,歴史をさらに70年ほど遡り, 舞台を大坂に移す必要があります.

天文塾「先事館」

1780年頃,天明年間のことですが, 麻田剛立(あさだ ごうりゅう,1734-1799) という人物が大坂の本町あたりに天文暦学の塾を開きました. それを「先事館」(せんじかん)と名づけました. そこに高橋至時(たかはし よしとき,1764-1804)間 重富(はざま しげとみ,1756-1816), 足立信頭,西村太沖といった秀才たちが集まってきて, 中国語の文献をたよりにヨーロッパ天文学を研究し, 天体観測を自分たちで行うという活動を始めました.


間 重富肖像画
特別陳列「羽間文庫−町人天文学者 間重富と大阪−」大阪市立博物館

麻田剛立という人は, 今の大分県の杵築で殿様付きの御殿医をしていましたが, 学究の道に専念したいがため,脱藩までして大坂にやってきたのです. もとの名を綾部正庵といい,麻田は変名です. 今でいえば壮烈な脱サラですね. 塾生の高橋至時は大坂城警備の同心です. 一方,間 重富は質屋さんの旦那さんでして, 蔵を11も持ち,大名貸しをするほどの豪商です. こうした多様な人生を負った人たちが机を並べて, 昼は研究に夜は観測に打ち込んでいたのですが, それが実際にどんな様子だったのかを知りたいものです.


天球儀と渾天儀(黄銅製) 江戸後期
特別陳列「羽間文庫−町人天文学者 間重富と大阪−」大阪市立博物館

華咲く町人文化

その時代に,民間の天文学を教える塾が存在して, そこにたくさんの逸材が集まっていたという情景は, 今の私たちには奇跡のようにしか思えません.

そのころの大坂は,町人たちの学習熱がもっとも盛んな時期にありました. とくに有名なのは「懐徳堂」という半民半官の学問所で, 中井竹山,履軒という兄弟学者が指導をしていました. そのころの学問といえば儒学ですが,江戸の昌平坂学問所とちがって, 身分を問わず誰でも働きながら学べる場だったのです. 多くの学者たちがそこで育ちました. ずいぶん自由な学風であったようで, 研究の対象は儒学から逸脱して, 政治経済や外国事情にも及んだといわれています.

麻田剛立は中井兄弟とは以前から交流があり, 大坂に出奔したときに,まず身を寄せたのが履軒の元でした. 余談になりますが,剛立は医学の先進的な研究家でもあり, 彼が描いた人体解剖図を履軒が書き写したものが書物として残っています.

そのほかに,町人文化の代表例として木村兼葭堂という人がおります. この人は,造り酒屋の主人ですが,猛烈なコレクターで博物学者でした. 国内外の鉱物・植物・動物・名物品を収集したのですが, それらはそっくり一つ博物館ができあがるほどのすごい質と量のものです. この人は物だけでなく人間まで集めるのが好きだったようで, 彼の自宅は文化サロンを呈していました. 『兼葭堂日記』にそこを訪れた人々の名が克明に記されていますが, 歴史に残る学者,文人,政治家,豪商がおり, さらに長崎から江戸参府へ行くオランダ人も含まれていました. 麻田剛立との交流もあり, ヨーロッパ製の天文測器を先事館と貸し借りしたことも記されています.

寛政年間の町人文化は,元禄文化とはまったく違った雰囲気があり, 私には何か人々の焦燥感のようなものが感じられます. ヨーロッパの波がすぐ近くまで押し寄せている時代の背景で, 人々が情報に渇望していたのでしょう.

先事館の天文学

麻田剛立が先事館をはじめた頃に研究していたのは, 「暦象考成」という清代始めに成立した中国の暦法書でした. この書の内容は,イエズス会宣教師が伝えた プトレマイオス天文学がもとになったヨーロッパの古典天文学であったのです.

ところが,1792年ごろのことですが, 間 重富が『暦象考成・後編』という新しい書物を入手して先事館に持ち込みました. 彼らはその内容の新しさと精緻さに感動して, ただちにその書の研究をはじめます. この書はドイツ人宣教師が著したもので, その内容は地球中心説をとりながらケプラーの楕円運動理論が説かれたものです. チコ・ブラーヘ説とケプラー理論の折衷案とでもいいましょうか. いずれにせよ,暦学上では大変な進歩で, 太陽と月の運動が精密に計算できるようになりました. このころには,麻田剛立が師というよりは, 共同研究のような体制になり, とくに高橋至時などはそのリーダー的存在となっていったようです.

先事館の研究が重視したことは, 実地の天体観測を行って自前のデータで暦上のパラメータを決定することです. 剛立自身も以前から観測機器の開発を手がけていますが, それをさらに推し進めたのは間 重富です. 戸田東三郎という細工職人を育て,さまざまな天体測器を作りました. 天体の角度を0.1度角以上の精度で測定していたようです. 特記すべきは,垂揺球儀という振り子時計の製作でしょう. これで天体の赤経が0.5秒程度の精度で測定できるようになりました.

その頃,市井でも望遠鏡の製作が盛んになり, 岩橋善兵衛の作った望遠鏡が天体観測に使われるようになりました. これは当時大変評判になったようで, 文化人が集まって天体観望会が盛んに行われたそうです.


屈折望遠鏡と反射望遠鏡(凹明対照眼鏡) 江戸後期
特別陳列「羽間文庫−町人天文学者 間重富と大阪−」大阪市立博物館

新宇宙観の流れ

先に見たように,先事館の天文学は地球中心説にもとづいたものでした. 太陽中心説の方は,麻田剛立が天文学をはじめた頃すでに, 長崎のオランダ語通訳がヨーロッパの啓蒙書を翻訳して紹介し始めていました.

我が国で,民間にいて太陽中心説という新しい宇宙観に触れ, それを自己の哲学に取り入れた最初の人物は, 三浦梅園だといわれています. この人は麻田剛立の幼い頃からの学友で, 師は剛立の父で儒者の綾部安正です. 梅園は生涯九州の地を離れず,独自の深遠な哲学体系を構築しました. 大哲学者カントと同時代に生き,日本のカントと呼ぶ人もいます. 最近,山田慶児氏の研究が出版されていますが,私には歯が立ちそうにありません. 梅園は,何度も長崎に出向きヨーロッパの学術に触れる機会をもったようで, その中で新しい宇宙観を理解したのでした. 梅園と剛立は生涯の友情を保ったのですが, 二人は古くから宇宙観も共有していたのではないでしょうか.

大坂には山片蟠桃(やまがた ばんとう)という傑物がいました. この人も豪商で,先に述べた懐徳堂の高弟の一人です. 最近は「蟠桃賞」というものもあって, 彼の事績については皆さんよくご存知のことと思います. 蟠桃は『夢の代』という有名な書物を残しました. この書は,哲学書というのか警世の書というのか知りませんが, 今の私たちが読んでも痛快に思うほど,徹底した合理主義思想で貫かれています. 彼の宇宙観が説かれている所では,太陽中心説,地球外生命説が展開され, さらに恒星は太陽と同じ天体であり,そこにも人間が住んでいるに違いない, というようなことが堂々と論じられています. 天文学にかなり造詣があり,この多くの知識は 先事館の人々との交流で得たものであろうと思われます.

寛政暦の成立

1795年,先事館に大きな転機が訪れます. 高橋至時と間 重富が江戸幕府に呼び出されたのです. 至時は天文方に取り立てられました.同心の身分から見れば大出世といえます. 町人である重富の方は,天文方御用という補佐的役目を与えられました. 幕府では,吉宗将軍の時代から暦を改めることが懸案事項であって, そのために先事館という民間の活力を登用することに踏み切ったのです. 当時の天文方は世襲制が保持されており, 阿部清明とか渋川春海らの子孫にはそれだけの実力が培われてはいなかったのです.

なれない幕府の中で苦労があったようですが,至時と重富は一致協力して, 1797年に改暦を成功させます. これを寛政暦といいます. この暦は先事館の研究成果をそっくりそのまま採用したもので, これまでの古い中国暦の焼き直しの暦を一新し, より高度なヨーロッパ天文学を基にした新しい暦が完成しました.

改暦が成功した後,至時は江戸に残り天文方として研究に専念し, 重富は大坂に戻り幕府御用として天体観測の業務をすることになります. その後,重富は何度も江戸と大坂を往復して, 至時をはじめとする天文方のさまざまな活動を援助していきます. 先事館の人々は,天文方に入ったり,加賀藩の天文教授になったりして 各地に散らばり,大阪の塾そのものは発展的解消をとげることになりました. 麻田剛立は1799年に波乱の一生を閉じました.

近代天文学との出会い

天文方という専門職についた高橋至時は, 研究内容を暦学から広げて本格的な天文学に移します. 彼の重要なテーマは,惑星の運動理論を作り上げることでした. 先事館時代の研究を発展させて理論を深め, 彼の代表著作『新修五星法』を上梓しました.

至時は,その研究の中で一冊の本に出会います. それが彼らのいう『ラランデ暦書』でした. この書は1780年ごろにパリ天文台台長であった ド・ラランデの著した専門書のオランダ語訳です. 全5冊からなる天文学の集大成で, 当時の最高の天文学教科書であるという評価が与えられているものです. 至時はその書の重要性を見抜き,直ちに解読にいどみました. 完全ではないオランダ語と天文学の知識を総動員して, 日夜をわかたずその書に没頭したそうです.

至時はそれがもとで身体を壊し, 結果的には自らの命を縮めることになったといわれています. 「ラランデ暦書管見」という膨大なノートを残して, 1804年,高橋至時は41歳の若さでこの世を去っていきました.

彼には高橋景保と渋川景祐という息子がおりました. 両人とも天文学者として天文方の職を継ぐのですが, 『ラランデ暦書』の研究は弟の景祐が引き継いで, 後の翻訳を完成させます. その研究成果がもとになって天保暦が成立したのでした.

伊能忠敬の全国測量

高橋至時が江戸に出府した年のことですが, 彼のもとに伊能忠敬(いのう ただたか,1745-1818)が入門してきました. この人物については皆さんよくご存知のことでしょう. 今の千葉県の佐原の有力商人でしたが, 51歳で隠居して天文学の勉強のために江戸に出てきたのです. 忠敬は至時のもとで研鑚を進める中で,素晴らしいテーマに出会います. それは地球の大きさを実測するという雄大な計画です. 忠敬はそれを実行に移したのです.

1800年,忠敬は数人の助手と用人をつれて,江戸から北海道へ旅立ちました. 各地で測地と天測を行いながらの8ヶ月にわたる大旅行でした. この計画には,幕府の許可や各藩の了承など政治的な根回しが必要で, これには至時が苦労しました. 種々の測量器の調達では間 重富が力を貸しました. 旅費と経費はすべて忠敬が自分で出したのです.

目的であった地球の大きさの計測は見事な成果をおさめました. それ以上に,測量結果をもとに作り上げた, 東北・北海道の正確な地図が人々を驚かせました. 地図製作の重要性に気づいた幕府の役人は, 全国の測量を幕府の事業として続けさせることになりました. 忠敬は,以降17年にわたって, 十数回の旅行で全国測量の偉業を成し遂げます. 天文方は,高橋至時亡き後は息子の景保が総指揮をとる形で, 忠敬の測量結果をもとに日本全土の地図を1821年に完成させました.

忠敬の全国測量旅行では,各地で先事館の人脈が影に日なたに 大きな支援をはたしています. 先事館で学んだ人々,さらにその弟子達が各地にいて, 天文ネットワークが形成されていたのです. 食などの天体現象の同時観測を常時行うというような 実績を積んでいたのです.

こうして完成した日本全国地図は, 役所内に秘蔵されて一般の人々の眼に触れることはなかったのですが, シーボルトを通じてヨーロッパに流出し, かの地で大きな評判と高い評価を得ました. こちらでは,それがとんでもない悲劇を生む結果となったのです.

シーボルト事件

高橋景保という人物は評価の分かれるところがあります. 弟の景祐が父譲りの几帳面で学究肌であったのに対し, 兄の景保は政治家肌で豪放な性格の持ち主だったようです. 景保は父の跡を継いで天文方を主宰し,天文方の組織を大きく発展させました. 先の日本全国地図製作もそうですし,天文方の新しい業務として, 洋書の翻訳や西洋事情調査をする部門も創設しました. これが後の開成校の前身です.

その景保は,オランダ商館のシーボルトと深い交流をもっていました. オランダ商館は年に一度の江戸参府を義務付けられていましたから, その度に会合をして,いろいろな情報交換をしていたのです. それ自体は,いわば公務ですから何も問題ないのですが, その中で,洋書や世界地図と引き換えに伊能の日本全国地図を シーボルトに手渡していたのです. 1828年,このことが偶然の機会から幕府の知るところとなり, 景保は国家機密漏洩の罪で逮捕されました. これが世に言うシーボルト事件の発端です. 景保はお家断絶されて獄死, 連座して息子2人を含む26人が遠島などの重罰, シーボルトは長崎幽閉後に国外追放,という結末を迎えました.

どっこい民は生きている

江戸幕府は厳格な鎖国政策をとり続けましたが, これは自国を他国から完全に封鎖するということではなく, 外国の文物や情報を幕府で独占するという政策であったのです. シーボルト事件をきっかけに, 民間での洋学研究は激しい弾圧を受けるという事態が生まれてきました. 江戸では蘭学研究などおおっぴらにはできないような雰囲気が でき上がってきたようです.

上方ではまだ自由な空気が残っていたらしく,1838年に, 緒方洪庵の指導する「適塾」という蘭学塾が生まれました. ここに全国から幾多の俊才が集まったことはあまりにも有名です. この塾も,洪庵が幕府に御殿医として登用されることで幕を閉じるのですが, そこで学んだ人たちから,幕府を転覆させた張本人とか, 日本の近代化を推進した人とかが輩出し, 近代日本史に銘刻を残しました.

この適塾の成立を考えるには,ふたたび歴史を遡る必要があります. 高橋至時や間 重富がまだ大坂で研究を進めていたころ, オランダ語の必要性を痛感していました. そこで,自分達がそれを一から勉強するのではなく, 若者を養成してオランダ書を読ませればよいのではないかという 考えに至りました. 市井から無名であるが聡明な一青年を探し出し,重富たちが私財を出して, その青年を江戸に送り蘭学を勉強させたのです. その青年は見事にオランダ語を修得し大阪に帰ってきました. この人物を橋本宗吉といい,後に蘭学者として大成しました. これにより大坂に蘭学の伝統が生まれたのですが, その流れの中で,幕末の大坂で適塾という奇跡が生まれたというわけです.

先事館が野にあったときに蒔いた種が, 後になってこのような形で華を咲かせることになるとは, 誰もが想像すらしなかったことでしょう.

歴史から学ぶもの

以上,かいつまんで,江戸期の天文学研究にまつわる物語をお話してきました. このような歴史は,それ自体が興味深く, また現代の私たちが学ぶべきことが多く含まれていると感じられます. 今回のシンポジウムの場で,私は次のような事柄を要約しておきたいと思います.

天文学研究というのは,一般的な生活感覚からは, ロマンチックな世界とか浮世離れした学問のように見られがちです. 江戸時代ともなれば,それはもっと強かったでしょう. しかしこれまで見てきたように,天文学という基礎的な学問が, 世の中と時代をその基盤から確実に動かしていたということです.

今ひとつは,民間で生まれた新しい思想潮流は, 間もなく官界に掬い取られます. そこで爛熟はするのですが,やがては腐り滅んでいく. しかし,また民間で新しいものが生まれる. という歴史のダイナミズムがあるということです.

つたない話になりましたが,ご静聴ありがとうございました.


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