『初歩からの 集団遺伝学』 (安田徳一 著,裳華房,2007) |
「子どもが親に似る」「きょうだいは他人の始まり」と、日常的に人々が口にする矛盾に満ちた表現は、生命の連続性と生物の多様性という現象をうまく言い表している。遺伝子の発する情報が土台となってこれらの現象をコントーロールしているという理解は、20世紀における人類の知見に対する生物学の最大の貢献であろう。当然のことながら、生命の存続を考えるとき、複数の生命体を同時に考える必要があることは、改めて引き合いに出すまでもない。
集団遺伝学はその名の通り、生物個体の集まりの連続性と多様性を研究する遺伝学の一分野である。しかし、その基本となるユニットは個体ではなく、遺伝子である。生命の連続性で考えられるのは、親から子に伝えられる遺伝子なのである。その遺伝子に見られる変異が個体の多様性を増幅する。したがって集団遺伝学は、遺伝子集合の構成や、遺伝子が互いに寄り添って個体としての遺伝子型を生じる仕様など、いわゆる集団構造の遺伝性法則を研究する学問である。
その具体的な目標は、生物進化を定量的に研究することであるが、交配実験が不可能な人類(ヒト)集団における統計的研究や自然集団の調査研究という側面もある。もちろん動植物の育種における実験計画を考える上でも役に立つ。本書は、ヒト集団の遺伝的構造を理解するために必要な集団遺伝学の基礎についての入門書を意図した。基礎的な知見はヒト集団だけでなく、生物一般にあてはまる定義や性質などを紹介し、具体的な例題で説明するように努めた。
まず簡単なメンデル因子の存在の推論の過程とその生化学的実体の説明に始まり、遺伝現象を考える基礎となるのは遺伝子というユニットであることを理解できるように努めた。その基本として、集合としての遺伝子プールという考え方に触れる。そこで導かれるハーディ・ワインベルグの法則から、遺伝子と遺伝子型(あるいは表現型)の関係を量的に表すことができる。
子どもが生まれるとき必然として起きる配偶子の機会的浮動、DNA複製の際に生じる突然変異は、ハーディ・ワインベルグの法則が成り立つ前提を乱す要因である。近親婚、移動、選択などの諸要因は、個体(遺伝子型)に作用する。隔離は個体の行動が制限されることで集団構造に影響を与える。これらは、遺伝子と遺伝子型との関係を理解する上で無視することはできない。2座位問題は、2つの遺伝子座を同時に考えることで、1遺伝子座で考えた場合にはなかった連鎖という現象が生じる。連鎖不平衡はハーディ・ワインベルグの法則では説明できない現象である。この現象を理解すると、マーカーと疾患の関連の問題の理解が容易になる。
生物学の主要問題である多様性は、これらの諸要因のいくつかが同時に作用する結果として、その代表的な機構を紹介する。とくに選択は、一部の配偶子が組織的に親から子へ伝達しない現象である。ダーウィンが生物進化の機構として、有利な選択を定性的に提唱したことはよく知られている。また、生物の進化とヒトの健康と疾患という観点から、遺伝的負荷について考えることにする。最後に、ヒトの進化を踏まえてヒト多様性についても言及する。
量的形質の遺伝は、個々の遺伝子の効果が小さくて測定が不可能に近いため、それらの分散を要因ごとに分ける、いわゆる分散分析の技法で現象を把握する。ヒトの血液型、アロザイム変異、DNA配列の変異は、生物変異の研究をその歴史に沿って述べたもので、遺伝変異がどのくらいあるのかを知るのに重要である。集団の罹病性の章と進化速度と遡上合同理論の章は、それぞれトピックスと最近の新しいアプローチを紹介した。各章の内容を理解する上で、データの扱いや式の導き方を例題に加えた。本文に追加のボックス的なトピックスも例題の一部とした(例題の番号はその章における通し番号ではなく、節の番号をつけてあるので注意してほしい)。
なお、できるだけどこの章から読み始めても理解できるように、各章の記述には重複があることをご了承いただきたい。
最後に、勉学案内として教科書・参考書を掲げたが、残念ながら日本語で読める集団遺伝学の入門書はほとんどが絶版になっているので、本書が集団遺伝学を勉強する上で役立つことを希望して止まない。本書の内容は、5年間にわたる千葉大学理学部多様性生物学講座における学部2年生を対象とした15回の講義録を土台として、その後若干の補填をしたものである。講議の機会を提供していただいた栗田子郎教授(現在 名誉教授)に深く感謝の意を表したい。また、私のつたない授業を真摯に聴講してくれた学生諸君との質疑応答は、本書の執筆にあたりたいへん裨益するところがあった。回を重ねるごとに内容がコンパクトになっていったのは、学生諸君に負うところが大きい。改めて御礼を申し上げる。
本書の刊行に際しては、裳華房編集部の國分利幸氏と筒井清美氏に大変にお世話になった。ここに改めて感謝の意を表したい。
最後になるが、集団遺伝学の研究にお導きいただいた木村資生先生に最大の感謝を表す次第である。ヒトを含めてゲノムマップが書き上げられた生物種が次第に増えてきている。これらの大量データを理解し活用するのに、集団遺伝学の知識は必ず役立つと私は信じている。
2007年9月
東酒々井にて
安田徳一
自然科学書出版 裳華房 SHOKABO Co., Ltd.