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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第43回 異能の陸軍参謀が残した回顧録

岩畔豪雄 著『昭和陸軍 謀略秘史』(日本経済新聞出版社)

『昭和陸軍 謀略秘史』カバー  前回(第42回)*1、そして第27回*2にも登場した、日本陸軍の軍人・岩畔豪雄(いわくろ・ひでお:1897〜1970)。諜報の専門家を養成する陸軍中野学校、陸軍の必要な物資を調達する専門商社の昭和通商、新たな科学的知見に基づく兵器を開発する陸軍登戸研究所、さらには第二次世界大戦をにらんで世界各国の経済力を分析する陸軍省戦争経済研究班──通称秋丸機関を、それぞれ設立した、日本陸軍諜報の大立者だ。
 *1 https://www.shokabo.co.jp/column/matsu-42.html
 *2 https://www.shokabo.co.jp/column/matsu-27.html

 満州事変から敗戦に至る15年の日本史を「なぜあんな愚かな戦争をしてしまったのか」という観点から読書を進めていくと、随所に岩畔の名前が浮かび上がってくる。こうなると、「どんな人なのだろう」と興味が湧くわけで、何か資料はないかと探し、最初に入手できたのが、今回取り上げる『昭和陸軍 謀略秘史』だ。
 戦争が終わった後の軍人は、回顧録などで積極的に発言する者と、沈黙を守る者とに別れる。岩畔は前者だったようで、本書の他に『世紀の進軍シンガポール総攻撃−近衛歩兵第五連隊電撃戦記−』(1956年、潮書房)、『戦争史論』(1967年、厚生閣)、『科学時代から人間の時代へ』(1970年、理想社)などの著書を残している。
 本書は1967年4月から6月にかけて、木戸日記研究会という歴史学者の集まりが、岩畔に行った3回のインタビューを文字におこして、ほぼそのまままとめたものだ。1977年に『岩畔豪雄氏談話速記録』(日本近代史料叢書)として非売品で世に出たものを、2015年に一般書籍として再刊した。巻末には、補論と題して、岩畔自身が日米開戦前後のことを記した覚書の「私が参加した日米交渉」を収録している。
 ……なのだが、これがもの凄く読みにくい。何しろ、岩畔が話したことをそのまま速記録としてまとめたものなので、話題はあっちこっちへと右往左往する。しかも、何の注釈もなしに、当時の人物の名前がぽんぽん出てくる。誰が誰だか、検索を駆使しないと読み進めることは難しい。
 これは他の歴史的資料と付き合わせて読み解くべき一次資料であって、読書を楽しんで教養を得るための本ではない。私にはちと荷の重すぎる本であった。
 それでも、読めば得るものはある。すぐに理解できるのは、岩畔の尋常ならざる頭の良さだ(そして1970年に逝去する彼の頭脳が、1967年時点で若干うろが来ていたことも。語る言葉の主語と述語の対応がかなり怪しいのだ)。
 そしてまた、彼の活動は、中野学校、昭和通商、登戸研究所、秋丸機関だけではなかったこともわかる。彼は、満州国経済運営、二・二六事変終結後の軍事裁判、陸軍が行った各国偽札の製造、アメリカとの開戦回避のための交渉、インド独立運動の支援なども主導していたのだ。しかも「大東亜共栄圏」という概念をつくった一人でもあったのである。
 そのように彼が、「軍事と外交の裏社会の大物」となっていた理由も見えてくる。彼は若くしてシベリア出兵に参加し、日本人としてはもっとも早い時期にゲリラ戦を体験していたのだった。

 岩畔は、広島・呉湾にある倉橋島の出身。すぐ近くには海軍士官学校が立地する江田島があった。が、彼は「なんとはなしに船に乗ることはあまり好きではない」という理由で、陸軍を志願し、幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学というルートで陸軍のエリートコースに乗る。1919年、少尉の時に一か月にわたってシベリア出兵を経験。この経験がどうも彼のその後の人生行路を決定づけた感がある。当時のシベリアは各種パルチザンが兵力を擁して群雄割拠する状況だった。その中で、彼は油断ならぬ相手との駆け引きを知り、ゲリラ戦を経験し、さらに敵である共産主義というイデオロギーを知り・勉強し、理解を深める。
 彼の思考は非常に真っ当だ。「彼を知り己を知れば百戦殆からず」(孫子・謀攻編)。この言葉の通り、彼は現代でいうゲリラ戦を研究し、共産主義を学び、虚実表裏ある外交における最適な戦略はなにかという思考を巡らせていく。その中で、彼は「戦争は武力行使以前の段階ですでに決着はついている」という命題に行き着く。

──そういう中野学校とか情報や謀略の近代化ということなんですけれども、そういうことを岩畔さんが思い立たれた直接の動機というのはどういうことですか。
岩畔 私は戦争というものは、第一義的に冷戦的なもの、武力以前の問題で勝負がつくのではないだろうかという感じを昔から持っておったものですから、それでこういうことになったものであると思います。戦争というものはいいものではなく、出来れば避けたいと思いますけれども、もしなる時はみんなこれをやっている。外国はそれをやっております。
                        (本書 p.149)

 戦争は武力以前に勝負が付いている。武力以前とは、諜報であり科学技術であり物流であり経済力だ。大変に真っ当な認識だ。
 大東亜共栄圏についても、彼は以下のように語る。

岩畔 「共栄」というのは、これはいまでも私はそう思いますが、戦争なんかの最後の目的だって。敵を圧倒的殲滅というのはこれは武力戦ですが、敵を生かしてこれと一緒にやっていくということでなければ戦争のほんとうの目的ではないのですよ。なにか敵意が残るというのはこれはいかんですよね。それはいまも昔も変わらぬ考えで、最後は共栄である。出来たら手段も平和的手段。しかし、それに反抗してきたらしょうがないではないか、こういうふうな考え方です。
                        (本書 p.163)

 クラウゼヴィッツの「戦争は外交における最終手段である」に通じる、これまた真っ当な思考である。

 では、その真っ当な認識の持ち主は、あまりに無謀な日米開戦にどう関わり、どのようにみていたのか。
 1940年(昭和15年)9月の日独伊三国同盟締結の結果、日米関係は悪化し、アメリカは経済制裁を日本に課してきた。解決策として、交渉による妥協の成立と、開戦との二つの選択肢があった。もちろん、前回取り上げた秋丸機関の研究で、開戦に踏み切っても敗北するしかないことははっきり分かっている。
 1941年(昭和16年)3月から8月にかけて、陸軍省の軍事課長だった岩畔は渡米し、対米開戦回避工作に従事する。カトリックのウォルシュおよびドラウト両牧師を仲介役として、ルーズベルト大統領と近衛文麿首相との会談を実現して、開戦を回避しようとした工作は、結局不調に終わる。岩畔は、本書収録の「私が参加した日米交渉」で、1941年6月22日の独ソ戦開戦以前ならば、妥協の余地があったと総括する。そこまでに妥協に至らなかった原因を、彼は近衛文麿首相の優柔不断と松岡洋右外務大臣が面子にこだわって、いたずらに決定を引き延ばしたためだと指摘している。
 1941年夏の段階で、日本は交渉による妥協という選択肢を失っていた。アメリカは日本に対する経済制裁を発動し、国内では欧州戦線でのドイツの快進撃を見て、「バスに乗り遅れるな。アメリカを叩け」と世論が沸騰する。
 岩畔は、日本には三つの選択肢があったと書く。1)アメリカに対する経済的・軍事的屈服、2)開戦による軍事的敗北、そして3)「退いて形勢を観望」である。三つめは、のらくらと言を左右し事態を引き延ばして状況の変化を待つ、というものだ。彼はこの三つめの案が正しかった、と書く。2年引き延ばしていたら、欧州の戦況はドイツ不利に転じる。それを見た上で再考していたら、あるいは日本は……。

 この案は先に掲げたようにクーデター乃至内乱を誘発する可能性があったが、それを忍び、若しスターリングラードの悲劇まで形勢を観望し、ドイツの実力を正当に判断しうるときまで時を稼いでいたら或いは日本は別の道を歩んでいたのではあるまいかと思われてならない。
 この案の実行には勿論政治家の異常な勇気と天皇陛下の聖断とを必要としたであろう。
                        (本書 p.340)

 実はこの案は、前回取り上げた『経済学者たちの日米開戦−秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』で、著者の牧野邦昭が示す開戦回避の可能性そのものなのだ。牧野は、経済史の研究者として当然岩畔の文章を読んでいただろうから、岩畔の思考を正しいと判断して自著に採り入れたのだろう。その上で牧野は、最新の行動経済学の知見に基づいて「当時の日本の指導部から、だらだら事態を引き延ばすという決断を引き出すためには、秋丸機関報告書はどんな筆致で書けば良かったのか」という歴史のifを提示している。

 近衛文麿首相の優柔不断な性格は、同時代の者が何人も記録している。松岡洋右外相の面子にこだわるところも同様だ。近衛が果断であったなら、松岡が面子にこだわらない人だったならば、300万人は死なずにすんだのかもしれない。本連載の第8回*3で、そして第30回*4でも書いたように、なんと些細なことで巨大な歴史のうねりは左右されることか──。
 そして、たとえ近衛が優柔不断で松岡が面子にこだわっても、秋丸機関報告書の文章の書き口がちょっと違っていたら、開戦には至らなかったかも知れないのである。
 さらに、この流れからは、昭和天皇が勇気の発揮どころを間違えたということすら見えてくる。1945年8月、ポツダム宣言受託に向けて議論がまとまらない御前会議をまとめたのは昭和天皇の“御聖断”であった。が、1941年に“御聖断”があったなら、そもそも戦争はなかったかもしれない──岩畔の主張を敷延すればそういうことになる。

 そこまで分かっていて、しかも政策決定のインナーサークルに身を置いていて、開戦回避工作まで進めながら、なぜ岩畔豪雄は最後の最後まで徹底して開戦回避に動かなかったのか。
 そこに岩畔という人の限界がある。本書を読むと随所に出てくるのが、「組織には従う」という岩畔の組織人として処世術だ。組織に従うというが、本書で岩畔は、昭和10年代の陸軍省内部における意志決定プロセスを的確に描写している。一言で要約すると“空気”である。その場の雰囲気がなんとなく多数派を形成し、権力闘争をしている上層部は無定見にその“空気”に乗っかって主導権を握ろうとする。そして、岩畔はというと、そこまで理解し、見切っていながら、“空気”で決まった組織の決定には従うのである。

 開戦に至るプロセスを中心に本書を読み解いたが、それ以外にも読みどころは多い。歯に衣着せぬ人物評は興味深いし、乱脈というも愚かなデタラメに近い陸軍の裏金の運用方法は、今となっては顎が落ちるほどに面白い。
 岩畔は、昭和19年1月に新たに編成された第28軍参謀長となってビルマ戦線に赴き、緑の地獄の中を兵と共に行軍することとなる。参謀長ともなると優遇されるので、彼は生きて還ってきたが、兵が病み、餓え、ばたばたと死んでいくのを目の当たりにした。
 第28軍には、何十人もの慰安婦が付き従っていた。岩畔は慰安婦を後方に下げようとするが、司令部から拒絶される。彼は慰安婦に軍服を与え、山中に退避させた。
 が、ビルマの山中には象がいる。

岩畔 ある時、見透すと象が十二、三頭その隊列を八の字に遮ぎるわけだ。そこで、たくさんの(松浦注:慰安婦の)中の一人の女の子がどうかした拍子に逃げ遅れて、伏せたらしい。そしたら象がこんな大きい足をもってギャフンと踏んだんだね。それで内臓が破裂してその場で死んでしまうんだね。
 (中略)
ぼくが馬に乗って見ると、白木の墓が立っているのです。女の子の墓です。「どうしたんだ」と戻って来るのに聞くと、今のような事情が分かるわけです。
                        (本書 p.249)

 馬に乗ることができた参謀長の岩畔が記録する、「馬に乗れなかった300万人のなかのひとり」の最期の様子である。


【今回ご紹介した書籍】 
『昭和陸軍 謀略秘史』
  岩畔豪雄 著/四六判/370頁/定価3740円(本体3400円+税10%)/2015年6月発行/
  日本経済新聞出版社/ISBN 978-4-532-16967-1
  https://bookplus.nikkei.com/atcl/catalog/2015/9784532169671/

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2019
Shokabo-News No. 359(2019-12)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在、日経ビジネスオンラインで「宇宙開発の新潮流(*1)」を連載中。近著に『母さん、ごめん。−50代独身男の介護奮闘記−』(日経BP社)がある.その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数.
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura
*1 http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20101208/217467/


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