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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第47回 1929年の恐るべき想像力

 『宇宙・肉体・悪魔 −理性的精神の敵について−』
   (J・D・バナール 著、鎮目恭夫 訳/みすず書房)

『宇宙・肉体・悪魔【新版】』カバー  科学的思考で未来の途轍もないビジョンを描いた予言の書。そのビジョンは現実世界だけではなく、SFの分野にも大きな影響を与えた??
 今回取り上げる『宇宙・肉体・悪魔』は、イギリスの生物・物理学者のジョン・デスモンド・バナール(1901〜1971)が、1929年、27歳の時に著した未来を考察する書である。邦訳は、1972年に出版されたが長らく絶版状態で、今年2020年7月に新たに作家の瀬名秀明氏の解説を加えて新版として復刊した。

 タイトルにある『宇宙・肉体・悪魔』とは、人類が未来に向けて立ち向かっていく世界とそこに存在する障壁を意味する。外的環境としての「宇宙」、自らの限界を規定する「肉体」──最後の「悪魔」は分かりづらいかも知れないが人間精神・人間社会の中にある「変化よりも今の状態が続くほうがいい」という退嬰的傾向を意味する。
 「理性的精神の敵について」という副題も分かりにくいが、原題では“An Enquiry into the Future of the Three Enemies of the Rational Soul”。直訳すると「理性的精神に対する三つの敵の未来に関する調査」だ。人類という理性的存在が未来に向けて立ち向かわねばならない三つの環境に関する考察と意訳できようか。
 バナールは、長年ケンブリッジ大学でX線を使った結晶解析の研究を行い、その分野で業績を挙げた科学者だ。同時に左翼思想家・運動家でもあり、第二次世界大戦では英軍に協力して連合軍の勝利に貢献した。
 私は本書の存在を40年以上前から知っていた。確か「SFマガジン」誌の誰だったか(石原藤夫氏だったと思うが、記憶が不鮮明である)のエッセイで紹介されていたのだ。しかし、今まで読んだことはなかった。今回、復刊を知り、それっとばかりに購入したのだが、その薄さに驚いた。内容ではなく、本が物理的に薄いのだ。全123ページ。バナール自身が執筆した本文はちょうど100ページしかない。しかも文字が小さいわけでもない。むしろ本文レイアウトはすかすかで、老眼でも非常に読みやすい。
 反対に内容は濃い。異常なまでに濃密と言っていい。1929年とは思えない先進的な考察が次々に展開していき、精神を宇宙の彼方に持っていかれるのである。

 本書は全6章構成で、それぞれ「未来」「宇宙」「肉体」「悪魔」「総合」「可能性」という題を持つ。第1章「未来」では、科学的思考で未来は予測できるという主張が展開される。続く「宇宙」「肉体」「悪魔」では、タイトルにあるように、人類の向かうべき未来とそこにある障壁を考察する。「総合」では、前の三つの章の考察をひとつに束ねて未来を考察し、最後の「可能性」で、さらにその先を垣間見ようとする。
 やはりというべきか、一番面白く、また予見的なのは「宇宙」である。材料とエネルギーから説き始め、この二つの面での科学的進歩が豊かな社会を実現するが、人間はそれに満足することなく宇宙を目指すだろうとする。そして、こう書くのだ。

宇宙の征服という問題は、あらゆる困難がその最初の段階に集中している問題である。ひとたび地球の重力場からの脱出が達成されれば、それ以後の発展はものすごく急速に進むに違いない。
                     (本書p.16〜17)

 「嘘だ。スプートニク1号の打ち上げから63年、アポロ11号月着陸から51年も経ったが、まだ人類は地球の近傍をうろうろしているだけじゃないか」と思う方もいるだろう。でも、バナールのこの考えは正しいのだ。
 地上から地球を周回する軌道に入るために必要な速度は7.9km/秒。第一宇宙速度というやつだ。実際のロケットは地球の重力に逆らって上に昇ったり、空気抵抗に打ち勝つ必要があるので、もっと大きな加速が必要になる。一声10km/秒だ。衛星打ち上げロケットは、約10km/秒ぐらいの速度が出せるように設計されている。
 ところで、もしも地球周回軌道に10km/秒の加速ができるロケットがあったとすると、一体どこまでいけるのか。答えは「太陽系を飛び出してどこまでも飛んでいける」だ。
 つまり、現状はなんとかかんとか地球を巡る軌道に手が届いて、そこでバテてしまっているという状況なのである。バナールの書くように、「地球の重力場からの脱出が達成」できれば、今の技術でも太陽系を飛び回り、さらに遠くへ行くことが可能なのだ。
 この前提からバナールは、様々な可能性を演繹していく。その思考の手順に大きな飛躍はない。ひとつひとつは確実にそうなるというステップしか踏んでいない。しかし、その結果得られるビジョンは、時代を超越している。

 彼は考える。宇宙旅行ができたとして、他の星を探検したり利用したりすることだけが有意義なのか。否、せっかく地球から脱出したのに、別の星に降りるのは無駄が多い。宇宙に人工的な住む場所を建設すべきである。こうして彼は、ジェラルド・オニール(1927〜1997)よりも40年早く、スペースコロニーの概念に行き着いた。そんなスペースコロニーは、長く使う以上は老朽化した部分は破棄し、新たに建築する、成長する生物のようなものであるべきだ。かくしてバナールは、黒川紀章(1934〜2007)より30年早く、メタポリズム建築の概念に行き着く。
 宇宙空間で成長し続けるスペースコロニーは、それ自身が巨大な宇宙船でもある。ならば巨大化したコロニーが別の恒星に向かって飛行しても構わないだろう。このような道筋で彼は、恒星間植民という概念にも到達するのである。

 「肉体」の章でも、彼は同様の思考を展開する。進化の産物である人体は必ずしも合理的な設計になっていない。であるなら、合理的な設計で置き換えても構わないのではないか──とサイボーグの概念に行き着き、人間の本質は脳と感覚器と運動器官を接続したものである、という認識に至る。ならば、複数の個人の脳を直接接続してもいいではないか、と、脳へのダイレクトアクセスと集団知性の可能性へと思考を発展させる……あれ? その集団知性ってSF作家アーサー・C・クラークの畢生の傑作『幼年期の終わり』(1953年)に登場する「オーバーマインド」そのものではないか。
 それだけではなくバナールは、脳を含む人体のあらゆる部分が交換・修理可能になるなら、寿命は事実上無限大になると考える。そうなると、別に精神は物質ではなく、電波や光のネットワークに保存されてもいいのではないか……士郎政宗『攻殻機動隊』(1989年)にそんな話が出て来たような。

 科学技術がもたらす変化と社会との関わりを考察する「悪魔」の章は、前の二つの章ほど予言的ではなく、彼の生きた時代の思潮にかなり規定されている。彼は、前2章で示したような変化が、変化へと進む者と旧来の社会に留まる者との分離・分裂を起こす可能性を指摘する。その上で宇宙開発が進むにつれて、旧来の社会に留まる者は地球に残り、変化へと前進する者は宇宙に散っていくという未来像を提示する。……あれ、随分とステロタイプじゃないか。SFで散々そんな未来像を読んだ記憶があるぞ。アニメでも『ターンAガンダム』(富野由悠季監督:1999年)は、そんな世界の地球の話ではなかったか。
 違う! こういう未来像を初めて提示したのは、1929年刊の本書なのだ。しかもバナールは、このような未来像はあまりにきれいに問題を解決するのでかえって「なにか弱点がある」と言い切っている(p.99)。

 あきれるほど少ない文字数で、驚きの未来を合理的に演繹した本である。その影響は世界のあちこちに飛び火したが、それについては本書附属の瀬名秀明氏の解説が丁寧に追っているので、そちらを参照されたい。
 瀬名氏の解説は、バナールの思考が、彼以前のどんな思想に影響されて出現したものかについても触れている。20世紀の時代思潮の中で、バナールの思考がどのあたりに位置付けられるかは、この解説を読めば一通りの理解は得られるだろう。彼は左翼の活動家でもあったし、同時に愛国者でもあり、生きた時代が課する思考の軛から完全に自由というわけではなかった。むしろマルクス・エンゲルスに始まる社会主義や、革命ではなく改革で社会主義を実現しようとしたフェビアン協会の運動などがあり、そのような社会思想と19世紀から20世紀にかけても長足の科学技術の発展との相乗効果があって、初めて驚きのビジョンに到達できたのである。

 ──というわけで、ここでは瀬名解説とはちょっと違った話を書くことにする。
 本書で展開するバナールの思考を追っていくほどに、「こういう思考をする人物をもうひとり知っているぞ」という気分になった。イーロン・マスク(1971〜)だ。電気自動車・太陽電池・蓄電池機器のテスラ、宇宙開発のスペースXのCEOを務める、2020年現在もっとも注目を集めている経営者といっていいだろう。
 経営者でありながら、彼の思考は、「これが有望市場だ」とか「大きく市場が拡大する」とか「ライバルは、国はなにを考えているか」というような普通の経営のありかたとはほど遠い。常に物理学的な原理や、現実世界の有り様から出発する。

 地球温暖化が進んでいる → なぜなら温室効果ガスを人類が排出しているからだ → 人類の持続的生存には温室効果ガス排出抑制が必須である → 温室効果ガス排出を抑制するにはどうしたらいいか → 太陽電池による発電でエネルギーを得れば良い → 太陽電池は太陽光を得られる晴れた日中しか使えない → 蓄電池を組み合わせればよい → だから太陽電池と蓄電池の技術開発を進めて大量生産で価格破壊を行い、一気に普及させる → 一気の普及にはどんな製品を押し立てればいいか──ここで初めて市場に関する考察が入って「狙うは電気自動車だ」ということになる。
 そこには「既存のガソリンやディーゼルの自動車を、電気自動車で置き換えるとして、商品として成立する市場環境は……」というような従来型の思考は一切入ってこない。
 第1段を逆噴射で着陸させて再利用するスペースXの「ファルコン9」ロケットも同様だ。
 ロケットは高い → 打ち上げ価格を安くすべきである → 使い捨てロケットの価格の内訳はほとんどが本体で、推進剤はごくわずかだ → 本体を再利用すれば良い → 一番回収しやすく再利用の効果が大きいのはどの部位か → 大きくて製造コストがかかり、しかも遠くに飛んでいかずに落ちてくる第1段だ → 回収にはどんな方法がいいか → 付加する重量物が脚だけで済み、しかも陸上や船上に軟着陸可能で、再打ち上げの整備が容易な逆噴射だ──といった具合である。
 マスクの執念である火星移民も、同様の思考から導き出される。巨大小惑星の地球衝突のような人類が絶滅する災害は実際にあり得る → 人類が永続的に生存・発展するためにはどうしたらいいか → 文明のバックアップを宇宙に作ればいい → 宇宙のどこに作るか → 1日はほぼ24時間、人が住めないほど暑くも寒くもなく、一応大気があり、ロケット推進剤のメタンと酸素を現地供給可能な火星だ──というわけである。
 だから彼のスペースXは今、火星に行くための巨大ロケット「スターシップ」を本気で開発している。そこに市場があるとかないとかは関係ない。物事を進めるために市場が必要なら、市場を作るところから始めてしまう。

 どうもイーロン・マスクからは、バナールから70年遅れた「考えるだけでなく行動するバナール」であるような雰囲気が漂ってくる。興味の対象がエネルギー、宇宙というのも似ている。それだけではなく、彼は脳直結インタフェースの開発にもかなりの投資をしている。『宇宙・肉体・悪魔』のうち、宇宙と肉体に関しては具体的アクションを起こしているわけだ。
 とするなら、イーロン・マスクに関する次の注目点は、いつ彼が「悪魔」に手をだすか、ということになるのかも知れない。彼が、彼の会社が開発した技術に基づいて「社会はどうあるべきか」と言い始めたら、それが次のステップの始まりなのかもしれない。
 おそらく、イーロン・マスクは、バナールの『宇宙・肉体・悪魔』を読んでいるであろう。その上で彼は、「悪魔」の章でバナールが述べる、「変化を受け入れる者が宇宙に拡散し、旧来の慣習を好む者が地球に残るという未来ビジョンにはなにか弱点がある」という指摘に、どのような解を出してくるであろうか。

 年初より始まったコロナウイルスのパンデミックは終息の気配を見せず、それどころかアゼルバイジャンとアルメニアが本格的な武力衝突を起こし──世界情勢は混沌としている。
 しかし、今この瞬間も世界のどこかで、人類は確実に前に進んでいる──そう思わせてくれる一冊である。


【今回ご紹介した書籍】 

『宇宙・肉体・悪魔【新版】 −理性的精神の敵について−』
 J・D・バナール 著、鎮目恭夫 訳、瀬名秀明 解説/四六判/136頁/
 定価2970円(本体2700円+税10%)/2020年7月/ISBN 978-4-622-08923-0
 https://www.msz.co.jp/book/detail/08923.html

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2020
Shokabo-News No. 364(2020-9)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在、日経ビジネスオンラ イン「Viwes」「テクノトレンド」などに不定期出稿中。近著に『母さん、ごめん。−50代独身男の介護奮闘記−』(日経BP社)がある.その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数.
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura


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