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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第50回 暴力と政治が織りなす日本のガバナンス

 『生きている町奴』(飛田東山 著、同成社、1963年発行)

 本連載の第38回※で取り上げた『中島飛行機の終戦』(西まさる著、新葉館出版)に飛田勝造(ひだ・かつぞう、1904〜1984)という人物が登場した。号は東山。全身に入れ墨を入れて「町奴(まちやっこ)」を自称し、日雇い労務者の地位向上のために戦った社会活動家だ。同時に政界官界財界に多くの知己を持つ、昭和のフィクサーでもあった。
  ※ https://www.shokabo.co.jp/column/matsu-38.html

 大変興味深い人なので、もう少し知りたいと思って調べると、飛田が『生きている町奴』という自伝を上梓していたことが分かった。
 さあ、どこで読むか。近隣の図書館にはない。県立図書館にも入っていない。……と、思ったらちょうどネット古本屋に出物があって入手できた。
 届いた本を見ると、なんと飛田自身の署名、そして「夢」という一文字の揮毫が入っているではないか。どういう経緯で古書市場に流れ、私の手元までやってきたものか。しばし思いを馳せ、読み始める……。
 その内容は予想していたものとは大きく違っていた。功成り名遂げた人がよくやる、ゴーストライターを立てての一代記だと思っていたら、そうではなくて、昭和30年代に五十代の飛田自身が書いた文章を集め、巻末に自らの履歴書を綴じ込んだ本だったのだ。内容は雑駁で話はあちらこちらに飛び、私の知りたかった彼の人生については、雑多な内容の中にぽつりぽつりと埋もれている。
 それでも飛田自身が書いた文章を読んでいくと、彼がかなりざっくばらんで率直な人であったことが見えてくる。そんな文章のそこここに埋もれている彼の人生エピソードを、巻末の履歴と比べつつ掘り起こしてみると、なるほどそれは興味深いものであった。
 なお、この本を飛田は気に入っていたらしく、折に触れて自分で再刊している。初版はタイトルにあるとおり1963年発行だが、私が手に入れたのは1974年刊行の改訂版である。

 飛田は1904年(明治37年)に茨城県の大洗に生まれた。生家は貧しく9歳にして奉公に出され、東京の綿問屋で働きはじめる。後に奉公先は材木問屋に変わるが、これが一大転機だった。材木問屋の主人が彼をかわいがり、実子同様に育ててくれたのである。
 22歳にして徴兵で所沢の陸軍航空連隊に入隊。軍隊は知的に一定水準の兵隊を必要とするので、徴兵で集めてきた者に教育を施す。
 もともと頭の良い人だったのだろう。軍で教育を受けることで、それまで読み書きすら危うかった飛田は、学力を手に入れることができた。
 そのままいけば、軍に残って優秀な下士官となり、下士官上がりの尉官にもなれたのかも知れない。ところが学力を得て物事の道理をきちんと考えられるようになると、天性の一本気が彼の行動を規定するようになった。不正・不条理が我慢ならない。いじめをする古参兵を制裁と称してボコボコにしたりで、彼は軍隊の組織からはみ出してしまい、徴兵の年限が終わるとそのまま除隊した。
 この時、奉公先の材木問屋は没落していた。戻るわけにいかず、彼は貧乏の辛酸をなめることになる。
 やがて東京港の荷積みを請け負う沖仲仕の組に日雇いで入り、頭角を現し、組の親分の娘と結婚。1931年(昭和6年)に独立して飛田組を立ち上げる。日雇いを雇う側に回り、彼らを束ねるようになったわけだ。仕事に応じて人を派遣し、手数料を取る。今風に言えば人材派遣業だ。
 人材派遣は、元手要らず、人間関係のみで始めることができる。このため、江戸時代から社会の中心から外れた者の仕事であった。飛田のいう「町奴」である。町奴とは、武家の旗本奴に対して町奴という。武家で家の飼い殺しとなる次男三男以下が傾いて自己主張したのが旗本奴なら、それに対抗して傾いた町人が町奴だ。「街の目立ちたがり屋」といったところだろうか。
 有名所では、江戸時代初期、町奴の頭目であった幡随院長兵衛(1622〜1650)の稼業が、「口入れ」つまり人材派遣業だった。口入れ稼業と博徒、つまり賭場を開く渡世人との境界はかなり曖昧だった。当時は、見込みのありそうな若いのと娘を結婚させて家業を手伝わせたり継がせたりというのが当たり前だったので、結婚から独立に至るまでの飛田の人生行路はそんなに珍しいものではない。しかし、運命は彼を単なる日雇いの親分には留め置かなかったのである。

 彼の履歴の1936年(昭和11年)の項には「衆議院選挙法違反により懲役三月に処せらる」「二・二六事件に伴う騒擾罪並びに鉄砲火薬取締例違反により罰金五十円を課せられる」とある。一方、本書の後書きには「刑務所も、人間の行く処で、行き方によっては十年に1度位は悪くない。」という言葉に続いて、以下のように書くのである。

「私は政治・思想犯として一年に前科二犯になった。が、この一年は私をして大学を卒業せしめてくれた。大日本史を知り水戸学を知り、宗教を知った。同時に藤田東湖を知り、西郷隆盛を知り、近世日本の変せんを知った。それは昭和十一年二月二十六日に、市ヶ谷刑務所に入学した。これはすなわち、社会大学である。同年十二月二十一日、出獄して三十三歳。」

 本書には、逮捕から服役に至る詳しい事情は書いていない。書きたくない理由があったのは間違いない。ともかく彼は選挙違反と二・二六事件に関係し、約10か月刑務所で服役した。二・二六との関係とは、決起した陸軍青年将校側との何かの動員を巡るやりとりがあったと見るべきだろう。日雇いを動員できる組の親分は、色々な意味で政治的に便利だったであろうから。選挙違反もまた、何らかの荒事に関連した動員絡みであろう。

 本書中で、飛田は出獄後の1939年(昭和14年)に、またも警察の取り調べを受けたエピソードを書いている。
 この年の4月、立憲政友会が内部抗争で自由主義の正統派とファシズム的な革新派の二つに分裂し、7月には解党して大政翼賛会に合流するという政治的事件があった。日本がファシズムに流されていく時代のひとつのエピソードだが、この分裂の直前にあたる3月31日、飛田のところに衆議院議員の大野伴睦(1890〜1964)がやってきた。戦後、自由民主党の重鎮となった政治家だ。
 大野は言う。「政友会総裁を巡って鳩山一郎(1883〜1959)さんと中島知久平(1884〜1949)さんが争っているが、政友会本部を中島派が押さえてしまってどうにもならない。なにか良い手はないか」。鳩山は正統派を、中島は革新派を代表していた。大野は正統派である。
 飛田は鳩山にシンパシーを感じていたので、知恵を貸すことにする。翌日の昼、芝の料亭で飛田は鳩山・大野に加えて三土忠造(1871〜1948)、宮脇長吉(1880〜1953)の4人の政治家と昼食を共にする。
 そこで飛田が4人の政治家に授けた秘策とは、「銀座辺のグレン隊を大勢狩り集めて、代議士のにわか秘書に仕立て、大手を振って政友会本部に乗り込み、そして秘書をのこして代議士は帰る。これを次ぎ次ぎに繰り返す。本部の中はイセイの良いアンチャンで一杯になる。そのうちに、機を見て、敵方とケンカを始めさせる。テンヤワンヤになって、敵味方もろとも警察にひっぱってゆかれた後、鳩山派がユウユウと乗り込む」(本書p.41)というものだった。
 が、会合から帰るとすぐに刑事が来て、飛田は逮捕されてしまう。話をきいてびっくり。会合の給仕をしたボーイが実は刑事で、話はまんま警察に抜けていたのだった。
 それだけではなかった。彼は警察庁ではなく麹町署の留置所に入れられた。すべての署の留置所が一杯だったからだ。
 なんとこの日、鳩山派の政治家である津雲国利(1893〜1972)が「三多摩の壮士380人を引っ張って来て、政友会本部の乗っ取りを計ったため、新宿まで来ると、警官が多数で、そっくり捕って留置場入りとなった次第」(本書p.36)という事件があったのである。
 この日から8日間、飛田は警察の拷問を受けることとなった。

 この部分を読んで、私は「あー、なるほど!」と思わず声に出してしまった。というのも、大分後の1960年、日米安全保障条約改定に伴った反米・反政府闘争が起きた時、時の岸信介首相が右翼やヤクザを実働隊として動員したことを知っていたからだ。
 新しい日米安全保障条約は、1960年1月19日に渡米した岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。条約の発効には国会の議決が必要だが、世論は沸騰し、全国で反対のデモやストが発生した。政府自民党は5月19日に安保条約等特別委員会で、翌20日に衆議院で強行採決を行う。この時、岸首相は体格の良い右翼青年を集めて公設秘書として国会内に導入し、座り込みで抵抗する野党議員を排除した。なんのことはない、飛田が鳩山らに授けた秘策とまったく同じである。
 衆議院を通過させれば、参議院で審議できなくとも自然成立となる。「民主主義の破壊だ」と、増え続けるデモ隊を押さえるため、岸首相はフィクサーの児玉誉士夫経由で各地の暴力団と接触し、デモ制圧の動員を依頼した。国会議事堂前でデモ隊と暴力団・右翼団体が乱闘となり、さらにそこに警察の機動隊が乱入する。怪我人が続出し、6月15日には東大生の樺美智子の死亡事故が発生。
 ますます燃えさかるデモに、岸首相は、自衛隊の治安出動を決心する。が、これは赤城宗徳・防衛庁長官が「自衛隊に日本人を殺させるわけにはいかない」と拒否の姿勢を示して挫折。6月19日の安保条約改定の自然成立後、岸内閣は責任を取って総辞職したのだった。もしもこの時、自衛隊が治安出動していたら、日本は中国に先駆けること29年にして天安門事件と同様の悲劇を体験していただろう。

 この経緯を知った時、私はごく自然に右翼や暴力団を動員しようとした岸信介首相の発想に奇異の念を抱いたのだった。法を超えた部分の暴力で、右翼や暴力団に頼るということは、政治が彼らに借りを作るということだ。借りを作ってしまえば、後はタカリの専門家であるヤクザが徹底的に利益をしゃぶり尽くすに決まっている。なんでそんな危ない手段に手を出すのか、と。

 この飛田の記述を読んで納得した。60年安保よりはるか以前から、政治と暴力の関係は続いていたのだ。それはお互いに「ここまでなら頼っても/しゃぶっても大丈夫」という暗黙の了解が成立するほど長く続いていたのだ。おそらくは、明治維新前後の志士と称される人々の動きの中に、その根はあったのではなかろうか。  飛田が束ねていた日雇い労働者といい、岸信介や自由民主党が掴んでいた行動右翼といい、児玉誉士夫がつながっていたヤクザといい、すべて法の向こう側にある暴力を恣意に執行する者だ。
 恣意の暴力、市井の暴力である以上、法と治安を束ね警察と軍という最強の暴力手段を持つ政府相手に過ぎた無法をすれば、公権力によって潰される。だから彼らは、潰されない程度に政治に利用され政治を利用する術を、長い付き 合いの中で心得ていたのである。  「なぜ岸信介首相は、日本の首相でありながら暴力団を使ったか」ではない。「日本の首相という権力者だったからこそ、暴力団を使いこなせた」のである。 話を戻すなら、「銀座辺のグレン隊を大勢狩り集め」るなんてことは政友会の政治家にはできない。そうなれば当然、飛田なりその同業者に頼ることになろう。すると政友会から手数料が飛田らに渡ることになる。同時に彼らは政治家に知己を得て、なにかと物事を政治に頼むことになる。津雲国利が連れてきた「三多摩の壮士380人」も、おそらくはそのような関係の中で動員された者らであろう。
 そのような関係が政友会の混乱にあたって、いきなり構築されたはずはない。もっと長い、おそらくは飛田よりも遙かに以前から、政治と口入れ稼業の間で、裏の関係が続いていたのだ。

 さらに話を戻して、飛田勝造の入獄である。彼は三十歳を過ぎて約1年服役し、その時間を学ぶことに使った。結果、本人が書くように、特に水戸国学、なかでも藤田東湖(1806〜1855)を発見し、心酔した。
 藤田東湖への心酔と、おそらくは戦争へと流れていく世相とが噛み合って、彼は日雇い労務者の地位向上へと動き始めることになる。

 が、もうメルマガの記事としては長く書きすぎた。他にも文献があるので、この話、もう一回続きます(いいですよね! 編集のKさん)。



【今回ご紹介した書籍】 

『生きている町奴』
 飛田東山 著/菊判/324頁/1963年1月刊/同成社

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2021
Shokabo-News No. 370(2021-5)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在、日経ビジネスオンラ イン「Viwes」「テクノトレンド」などに不定期出稿中。近著に『母さん、ごめん。−50代独身男の介護奮闘記−』(日経BP社)がある.その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数.
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura


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