第60回 しゃべり合い、助け合う女たち
『さくらと介護とオニオカメ!』(1〜5巻)
(たかの歩 著、マイクロマガジン社、2020〜2022年刊)
当方、認知症の母を介護してもうすぐ9年になる。国の介護保険制度では、要支援1/2、要介護1〜5の7段階で症状を区分する。「預金通帳が見つからない、どこにしまったのわからない」から始まった認知症は、9年で最も重症の要介護5まで進行した。今、母はグループホームのベッドで寝たきりの生活を送っている。もう話もできない。食事は流動食のみだ。何度となく「もうダメかも」という状態に陥り、その度に我々子どもらは右往左往した。が、毎回しぶとく回復して、母は生きている。
その間に私は『母さん、ごめん。』というタイトルの介護体験記を2冊上梓した。幸いにして本は売れ、介護関係の講演や対談の依頼、取材の申し込みなどが来るようになった。
そのなかで、気が付いたのは、「しゃべる女と黙る男」ということだった。
このことに気が付かせてくれたのは、取材にやって来た某通信社の女性記者だった。自身も女三人姉妹で母を看取ったことがあるという彼女はずばりと「御本を読んで気が付いたのですが、なんで松浦さん、そんなに話さないんですか」と切り込んできた。「私も母の介護を経験しましたけれど、姉妹三人でしゃべくりながら切り抜けましたよ。それこそ『おかあさん、さっさと死んじゃえばいいのにねー』とか話し合いながら、介護したんですけれど」。
親の介護をしなくてはならないとなった時、男性はどういうわけか、私を含めて黙ってしまう傾向がある。黙って、自分に負荷を掛け、耐え続ける。
対して女性の場合は、とにかく同性と会話する。会話することで鬱憤を晴らし、情報を交換し、助け合い、自分にかかる負荷を分散して介護を続けていく。全部が全部そうではないのだろうが、明らかにその傾向がある。
というわけで今回は、老人介護施設を舞台にした女性ばかりが出てくるマンガ『さくらと介護とオニオカメ!』を。といっても、主題は介護そのものではない。
舞台となるのは認知症の老人の住む老人保健施設「グリーンゲイブルズ」。明言はされていないが、運営形態からすると特別養護老人ホームであろう。主人公のひとり、29歳の熊本さくらは、そこで介護スタッフのリーダーを務めている。スタッフは女性ばかりなので、力仕事のできる男性職員を募集中で、もうひとりの主人公である鬼岡明(オニオカ・メイ:以下メイ)が応募してくるところから話は始まる。
「オニオカ・アキラ」という男性だと誤解されて面接に進むメイ。しかし、メイ自身は高校卒業を控えて就職先を探す女性だった。いくつかの事件を経てさくらに認められたメイは、グリーンゲイブルズでスタッフとして働くことになる。性格が明るいメイは、職場に溶け込み、やがて独身のさくらと同居することになる。
さくらは早くにガンで両親を失っていた。自身も若くしてガンを患い、手術を経て生還したガンサバイバーであった(物語中では「スキルス癌」とのみ説明されるが、描かれる手術痕の位置からすると、スキルス性の胃ガンらしい。生存率の低い難治性のガンである)。手術から5年を経てもう大丈夫と思った矢先、ガンの再発が発覚する。しかも手遅れ。並行してメイの家庭の状況も描かれる。母親が若年性認知症を患う崩壊家庭で育ち、深刻な心理的外傷を負っていた。さくらは自らの死と向き合い、煩悶する。事情が明らかになる中で、メイは徹底的にさくらを支えていこうと決意する。
つまりこの作品は「老人介護施設という、死が生活と共にある場を舞台にして、女たちの生と死を巡る友情と同性愛的感情、そしてコミュニケーションを描いていく」のである。
ガンの再発を告知されたさくらは最初、誰にも迷惑をかけないように、ひとりで死のうとする。しかし、メイと知り合い生活を共にしたことで、残された時間をいかに生き抜くかを考えるようになる。
2人の周囲の女たちもまた、さくらを引き留める。施設の辰野事務長も竹取看護師長も、さくらがひとりになることを許さない。竹取はさくらに語りかける。「なんであなたは一人になる事を選ぼうとするのかしらね……私も事務長も鬼岡さんもあなたを必要としているのよ?」
グリーンゲイブルズはかならずしも順風満帆の職場ではない。問題は山積し、職員に不満は鬱積している。さくらは周囲に助けられながら、その職場に「なにかよいこと」を残していこうとする。
短い生をなんとかして充実させようとするさくらの苦闘、それを支えるメイと周囲の女たちの描写を積みかさねて、ストーリーは進行する。つらければつらいほど、女たちは顔を寄せ合い、話し合う。特にさくらが緩和病棟に入院してから登場する、「ウサちゃん」というあだ名の看護師と、さくら・メイとの会話は印象深い。
さくらは望み通り最後まで生き切るが、若くして病で死なねばならぬということはどうしても無惨なものだ。物語はさくらの葬儀、そして後に遺されたメイがさくらの死を受容し、前を向くところまでを描き切って終わる。
読後、私はこのマンガと見事なまでに対照的な映画があることに気が付いた。「捕虜収容所という、死が生活と共にある場を舞台にして、男たちの生と死を巡る友情と同性愛的感情、そしてディスコミュニケーションを描いていく」──『戦場のメリークリスマス』(大島渚監督:1983年)だ。
舞台は第二次世界大戦中のジャワ島、日本軍の捕虜収容所。主要な登場人物は4人。日本語ができる捕虜のロレンス(演じるのはトム・コンティ)、新たに捕虜として送られてきた反抗的なセリアズ(デヴィッド・ボウイ)、収容所所長のヨノイ大尉(坂本龍一)、ヨノイの部下のハラ軍曹(ビートたけし)。
「戦メリ」が描くのは4人の男たちの徹底したディスコミュニケーションだ。ヨノイはセリアズに同性愛的感情を抱くが、それを恥と感じてかむしろ徹底的に抑圧的に振る舞う。ロレンスはハラを通じて日本人を理解しようとするが、その意志は粗暴で学のないハラには通じない。
それ故、一瞬の交流は輝くように描写される。収容所内に無線機を持ち込んだ罪で、ロレンスとセリアズは過酷な環境の独房に入れられる。彼らを救うのは、クリスマスで酔っぱらったハラの気まぐれだ。「私、今日、ファーゼルクリスマス」。が、それは気まぐれであって、意志の疎通ではない。
この映画にはもうひとり、重要なキャラクターが登場する。捕虜代表としてヨノイと交渉するヒックスリー(ジャック・トンプソン)だ。ヒックスリーはあくまで捕虜の権利をヨノイに対して強硬に主張する。それはヨノイからすればコミュニケーションの拒絶でしかない。業を煮やしたヨノイは捕虜を虐待し、ついには死者が発生。さらにヨノイはヒックスリーを斬殺しようとする。
そこであの、劇的なセリアズによるヨノイへの抱擁とキスが描かれる。セリアズの行為はヨノイに向けた、さらにはその場に居合わせた全員に対するコミュニケーションへの希望である。が、成就ではない。ヨノイは失神して倒れ込み、罪を問われたセリアズは生き埋めにされて衰弱死する。深夜、生き埋めで瀕死のセリアズの前にヨノイが現れ、深々と一礼してその髪を一房切り取る。大変美しくもエロティックで、印象的なシーンだが、それはコミュニケーションか? 否、ヨノイの一方的な思慕でしかない。
戦争が終わり、ロレンスは戦犯となったハラと面会する。ここで初めて「話し合わぬ男たち」の間でコミュニケーションが成立する。
ヨノイはすでに戦犯として処刑されており、ハラも明日に死刑執行を控えている。だが、それでも最後にハラはロレンスに向かって語りかける。「メリークリスマス、ミスターロレンス」。
映画は「種を蒔く」という言葉にコミュニケーションへの希望を象徴させている。ローレンス・ヴァン・デル・ポストによる原作小説は“The Seed and the Sower”(種と種を蒔く者)という、そのものずばりの題名だ。捕虜収容所というディスコミュニケーションの巷に蒔かれたコミュニケーションへの希望は、現実の中で何度も裏切られ、挫折し、それでも最後に「メリークリスマス、ミスターロレンス」という言葉と共に成就する。
だが、男たちのコミュニケーションはなぜかくも何度も挫折しなければならないのか。
「男だから」「女だから」と安易にパターンにはめ込んではいけないのだろう。そもそも「話し合いしゃべりあって支え合う女」「黙って抱え込む男」という構図が、生物学的なものなのか、それとも文化的なものなのかもきれいに切り分けられるものではない。正確なところが知りたければ、マンガひとつ映画一本に頼るのではなく、文化人類学的な調査結果を渉猟する必要がある。
私がはっきり主張できるのは、2023年現在の老人介護を巡る状況の中に、確かに「話し合いしゃべりあって支え合う女」「黙って抱え込む男」という傾向が存在していて、『さくらと介護とオニオカメ!』と『戦場のメリークリスマス』を並べることで、その構図が明確に見えてくるということだけだ。
『さくらと介護とオニオカメ!』には男性キャラクターも登場する。特にさくらの元恋人の酒井は、さくらが生きる意志を貫徹するにあたって重要な役割を担っている。しかしその酒井は、仕事の事情でさくらが息を引き取る瞬間にそばにいることもできなかった。
それは、この物語がさくらとメイの師弟愛とも家族愛とも同性愛とも付かぬ感情的な結びつきを主軸にしていることからの、作劇上の要請からなのかもしれない。
とはいえ──酒井は路上でちょっとした人助けをしているときに、さくらの訃報を受け取る。その時彼は、助けて貰ってお礼を言う相手を「早く行けって! 言っているんですよ」と突き放す。そしてひとりぼっちで涙するのだ。なんとも示唆的で、いくらでも深読みができそうなシチュエーションではないか。
私は、母の介護を通じて、老人介護とは単に個人の問題でも家庭の問題でもないと知った。それは高度に社会的な作業であって、一人で抱え込んでいて完遂できるようなものではない。「家族が面倒を見るのが当然」と言っている政治家は、単に自分の問題として老人介護にぶつかった経験がないだけに過ぎない。
個人の問題ではない以上、そこには必ずコミュニケーションが発生する。兄弟姉妹や親戚、ケア・マネージャー、ヘルパー、老人施設のスタッフ、医師、看護師などとコミュニケーションをとって人間関係を構築し、適切な介護体制を作り上げる必要がある。しかもそれは、被介護者の症状の進行に合わせて動的に組み替えていく必要もある。
とするなら、「話し合いしゃべりあう」のと「黙って抱え込む」のとで、どちらが適切な介護ができるかは自明であろう。少なくとも、老人介護においては男もまた「話し合いしゃべりあう」必要がある。
ことが介護であるならば、すべてが手遅れになった後で「メリークリスマス」と言っても、それは成就ではないのだから。
【今回ご紹介した書籍&DVD】
●『さくらと介護とオニオカメ!』(1〜5巻、完結)
たかの歩 著/B6判/定価 各748円(税込)/2020〜2022年刊/
マイクロマガジン社/ISBN 9784867160800(1巻)
https://micromagazine.co.jp/book/?book_no=1104
#上記URLは1巻。いずれも電子書籍もあります。
●『母さん、ごめん。 −50代独身男の介護奮闘記−』
松浦晋也 著/文庫版/272頁/定価682円(税込)/2022年刊/
集英社文庫/ISBN 978-4-08-744345-5
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-744345-5
#2017年に日経BP社から刊行された単行本の文庫版。巻末にジェーン・スー氏との対談付き。
#電子書籍もあります。
●『母さん、ごめん。2 −50代独身男の介護奮闘記 グループホーム編−』
松浦晋也 著/四六版/304頁/定価1760円(税込)/2022年刊/
日経BP社/ISBN 978-4-296-11195-4
https://bookplus.nikkei.com/atcl/catalog/22/06/06/00216/
#電子書籍もあります。
●映画『戦場のメリークリスマス』
監督:大島渚/脚本:大島渚,ポール・マイヤースバーグ/製作年:1983年
盤種:DVD/価格5280円(税込)/発売・販売元:紀伊國屋書店/品番:KKJS-61
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-10-4523215036405
「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2023
Shokabo-News No. 386(2023-4)に掲載
【松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】
ノンフィクション・ライター。1962年東京都出身。現在、日経ビジネスオンライン「Viwes」「テクノトレンド」などに不定期出稿中。近著に『母さん、ごめん。2──50代独身男の介護奮闘記 グループホーム編』(日経BP社、2022年6月刊)がある。その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数。
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura
※「松浦晋也の“読書ノート”」は、裳華房のメールマガジン「Shokabo-News」にて隔月に連載しています。Webサイトにはメールマガジン配信後になるべく早い時期に掲載する予定です。是非メールマガジンにご登録ください。
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