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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第62回 あまりに異質であった三代目

『安倍三代』(青木 理 著、朝日新聞出版)

 ずっと続けてきた阿片を巡る読書だが、現在少々停滞している。問題意識は「昭和初期から敗戦に至るまでに大日本帝国が国際条約に違反して商った阿片の収益は、戦後の日本の政治にどう関係したのか」だが、だいたい出版されている本としては読み尽くしたかな、というところまで来てしまった。
 そこで、逆方向から攻めることにした。ここまで、日清戦争による台湾の植民地化から始めて時代を追うようにして読書してきた。では、逆に現在から歴史を遡るようにして読書していったなら、なにか分かるだろうか。
 阿片に関係し、戦前と戦後をつなぐキーパーソンは、間違いなく岸信介だ。しかし岸は賢く、老獪であり、容易なことでは尻尾を出さない。ならば、現在から岸へと遡る形で読書すれば、なにかが見えてくるのではないか。
 というわけで読んだのが今回取り上げる『安倍三代』だ。

 読んで、最初は「失敗した」と思った。岸信介を扱っていると読んだのだが、実際には本書で取り上げる「安倍三代」とは岸の系譜ではなく、安倍家の系譜──安倍寛(あべ・かん、1894〜1946)、安倍晋太郎(あべ・しんたろう、1924〜1991)、安倍晋三(あべ・しんぞう、1954〜2022)だったのである(3人とも故人であるので、本稿では敬称略とする)。が、読んで驚愕した。丹念に証言を集めていくことで、安倍晋三という人の抱えていた政治家としての欠点、問題点を2017年の時点できれいにえぐり出しているのである。
 本書は、まず週刊誌『AERA』2015年8月から2016年5月にかけて9回掲載され、その内容に大幅に加筆して完成した。著者は共同通信勤務を経て独立したノンフィクション・ライター。政治・社会分野で執筆活動を続けており、『日本の公安警察』(講談社現代新書)、『ルポ 国家権力』(トランスビュー)、『日本会議の正体』(平凡社新書)、『情報隠蔽国家』(河出文庫)などの著書を持つ。

 本書は、安倍家から出た3人の政治家を、「第一部:寛」、「第二部:晋太郎」、「第三部:晋三」と時代を追って一人ずつ記述していく。記述にあたって、著者は徹底した取材を行っている。安倍家の地元である山口県長門市油谷町、旧大津郡日置村(へきむら)に通い詰め、さらに下関の関係者を取材し、寛・晋太郎・晋三を直接、間接に知る人に会って話を聞き、3人の人間性の奥底までを掘り起こそうとする。
 取材に応じた人々の多くは高齢だ。当然である。寛が道半ばで病死したのは1946年のことだ。寛を直接知る人となると、寛が政治家として活動していた時期には子どもから若者の年代であった人に限られる。取材・執筆の時期であった2010年代前半は、このような作業が可能なぎりぎりの時期だったといえるだろう。2023年の今、本書に貴重な証言を遺してくれた方々は、そのほとんどが鬼籍に入られたのではなかろうか。

 そうして掘り起こされる安倍寛の肖像は、田舎の裕福な家庭に生まれつつも現実に何度も打ちのめされ、なおも起き上がってきた粘り強さと、文字にするなら「誠実」としか形容しようのない人格的真っ直ぐさで構成されている。
 安倍寛は、1894年(明治27年)日置村の大地主の家に生まれる。しかし、父は生まれて1年もしないうちに、母も3歳の時に病気で早世してしまい、伯母に育てられる。幼少時より勉学優秀で金沢の旧制第四高等学校を経て東京帝国大学政治学科に進学。政治家を志望したのは伯母が勧めたからだという。東京帝大卒業後、東京で自転車製造業を立ち上げる。「政治にはカネがかかる。まずカネを作らねばならぬ」と考えたからだった。やがて隣村の名家の娘・静子と結婚し、一人息子の晋太郎が生まれた。
 しかし、1923年に関東大震災が発生。おそらくは相当の被害を受けたのだろう。寛は自転車製造業を畳んで帰郷することを余儀なくされる。同時期、静子と離婚。この離婚は当人同士が望んだものではなく、主に静子の実家のなんらかの事情によるものだったらしい。その後、寛が再婚することはなかった。
 帰郷後、1928年(昭和3年)の衆議院選挙に立候補したが落選。しかも無理が祟って、寛は学生時代に罹患し、一度は落ちついていた結核が悪化してしまう。その寛を、日置村村民が村長に担ぎ出した。当時日置村村議会は二つに割れて抗争を繰り返しており、その調停を名家出身で学識のある寛に託したのである。寛は「病身でも良いか」と問うて、受け入れられるとベッドを村役場に運び込んで献身的に仕事をし、村民の信頼を得ることになった。
 自らの選挙地盤を得た寛は、1935年(昭和10年)に山口県議会議員選挙に出馬し、当選。当時は村長との兼務が許されていたので、村長兼県議会議員となった。ある程度結核が回復したことから、1937年(昭和12年)に、再度衆議院議員選挙に打って出て、今度は山口一区で当選する。選挙にあたって寛は、今で言うマニフェストに相当する意見書を配布した。その内容は徹底した反戦平和主義と、貧富格差の是正・失業者対策であった。著者はそこに寛の「視線の低さ」、つまり戦争のない平和な社会を実現して庶民と共に歩み、その生活を向上させるという意志を見ている。
 しかし時代はどうしようもなく、戦争へと流れていく。議員なりたての寛に国会内での影響力はなく、それどころか1940年(昭和15年)大政翼賛会が結成され、平和主義を主張することすら難しくなっていく。
 対米開戦後の1942年(昭和17年)4月の衆議院議員選挙は、政府が推薦した「推薦候補」が主体となり、「大政翼賛選挙」と呼ばれる。この選挙に、寛は時の東條英機の内閣に真っ向から反対し、非推薦候補として立候補した。非推薦候補には事実上政府の公認のもと様々な嫌がらせや選挙妨害が行われたが、それでも寛は当選を果たす。それは、彼がどれだけ地元で慕われていたかということを示すものだろう。
 この時、岸信介は東條英機に取り入って、政府推薦候補として隣の山口二区に初出馬。トップで当選している。東條英機への接近のために役に立ったのが、阿片王・里見甫の提供した巨額のカネであった。
 敗戦が近づく1945年(昭和20年)春、二つの象徴的な出来事があった。ひとつは寛と岸信介の面会。反戦平和を求める寛と、ファシストの岸信介は政治的立場はまったく異なったが、隣の選挙区で非推薦候補ながら当選し、節を曲げない寛を、岸は評価していたようである。この面会が後に、息子の晋太郎と、岸の娘・洋子との結婚につながっていく。
 同じ頃、海軍滋賀航空隊に入隊していた息子・晋太郎が一時帰郷する。特攻隊を志願したが故の「故郷に別れを告げてこい」の帰郷だった。後に晋太郎はこの志願を「一度も軍人になりたいと思わなかった。『どうせ死ぬなら華々しく散りたい』という気持ちからだった」と回想している。どうせ死ぬなら──つまり志願は形ばかりで、志願しないという選択肢はなかったのだ。
 寛の体調はまた悪化していた。この帰郷で父は息子に向かって語った。「この戦争は負けるだろう。だが、敗戦後の日本が心配だ。若い力がどうしても必要になる。無駄な死に方をするな」。
 敗戦後、寛は政治活動を再開しようとするが、体調がそれを許さなかった。1946年(昭和21年)1月死去。そして、政治活動は息子の晋太郎へと引き継がれていくのである。

 第二部の主役である安倍晋太郎は終生「自分は岸信介の娘婿ではなく、安倍寛の息子だ」と称し、なにかと父・寛の思い出話をしたという。著者による地元での緻密な取材から浮かび上がるのは、父は病身かつ多忙の政治家で、かつ母が不在の家庭で育った孤独、寂しさである。
 頭が良くて成績優秀、大柄でスポーツ万能。学校では一目置かれる存在──しかし心の奥底に寂しさを隠した彼は、岡山の旧制第六高等学校から東京帝大法学部に進学するも、戦局悪化に伴い海軍航空隊に入隊。死を覚悟する日々を送る。敗戦後、父の死に伴い後継者問題が発生するが、当時21歳の彼は被選挙権すらなかった。つなぎとして衆議院議員となった親戚の医師・木村義雄は、戦時中に大政翼賛会と関係していたために公職追放にひっかかって失職。代わって立った官僚出身の周東英雄は、その後中央政界で着実に地歩を固めていくが、父を尊敬し、その仕事を継ごうとした晋太郎にとっては障害となっていく。
 東京帝大卒業後、毎日新聞に就職して政治部記者となり、1951年に洋子と結婚。岸信介の閨閥に連なったわけだ。
 1953年に公職追放が解けた岸が政界に復帰したことから、晋太郎の人生も動き出す。1956年に毎日新聞を辞して岸の秘書官となり、1958年に自らも衆議院議員選挙に山口一区から出馬。しかしそこでは、すでに周東英雄が地盤を固めていた。この問題は結局、岸の弟の佐藤栄作が権勢を振るい、山口一区の自民党議員のひとりに参議院に回ることを承知させて解決した。しかし、親譲りだったはずの選挙地盤は、10年以上の空白の結果、周東のものとなってしまっていた。自分で地盤を作っていかねばならない。
 父・寛と義父の岸は考え方が異なる。しかし、その岸に頼らねば自分は当選できない──本書から見えてくるのは、晋太郎を「政治家二代目にして岸の威光をバックにしたボンボン」ととらえると事を見誤るということだ。父を尊敬しつつ、父とは政治的立場の異なる岸信介をバックにしなければ当選は覚束ないという立場が、晋太郎を「あちらも立てればこちらも立てる」調整型政治家へと導いていく。

 特に興味深いのは、下関の在日朝鮮人との関係である。山口一区の大都市である下関で、当初晋太郎は地元の名家・林家の支援を受けていた。しかしその林家から、通産官僚出身の林義郎が、周東に代わって出馬することになり、支援を受けられなくなる。
 そこで彼が頼ったのが、下関在住の在日朝鮮人のコミュニティだった。下関は古くから朝鮮半島・中国大陸方面との交通の要所であった。しかも朝鮮併合から敗戦までは、朝鮮半島は日本の植民地であったため、下関にはかなりの規模の朝鮮人コミュニティがあるのだ。彼ら自身は日本の選挙権を持たないが、中にはビジネスで成功して日本人を多数雇用している者もいた。組織票として動いてくれるわけだ。そして、在日朝鮮人コミュニティとしても、選挙権を持たない自分たちの利益を代表してくれる政治家が必要だった。加えて晋太郎には朝鮮人に対する差別感覚はなかった。旧制六高時代に、朝鮮系の親友を作っていたからである。
 ここでも彼は相反する利害を、政治を代表して調整するという課題に直面し、調整型政治家としての技量を身につけていく。しかも本書の記述から推察するに、調整のプロセスで双方から十分に事情を聞き取って、道理を立てて双方の満足のいく解決案を提示するということで、人間的な雅量と力量を磨き上げていったことが見えてくる。
 著者は、その根本に「幼少時の境遇」、つまり孤独や寂しさがあったのではないかと推測する。骨の髄からの孤独を知るからこそ、他者のつらさを感じ取ることができたのではないか、と。

 本書は熱心に安倍晋太郎を応援した下関在日一世の大物、吉本章治の言葉を紹介している。

「あの人(晋太郎)は身寄りがない。両親もおらず、兄弟もいない。足場がなく、一人でがんばっていた。ある意味、在日と似ていた。線は細いが、目線は同じだった」 (本書p.151)

 安倍晋太郎はその後順調に自民党内の地歩を固め、1986年には福田赳夫から福田派を譲り受けて派閥の長となる。「次は総理大臣」との評判は高かったが、1988年のリクルート事件に引っかかり謹慎を余儀なくされ、ほどなくガンを患ってしまう。1991年5月に、総理の座に就くことなく67歳で死去。
 最晩年、彼は父と離婚した母が再婚して一子を成していたことを知る。彼は「自分には弟がいた」と大いに喜び、早速面会して交友を持つ。その異父弟・西村正雄は、晋太郎の最期を看取ることとなった。
 晋太郎とその周辺の、総理への執念は、次男の晋三に引き継がれることになる。

 ところが、「第三部:晋三」の記述は、ここまでの「第一部:寛」、「第二部:晋太郎」とはまったく雰囲気が変化する。著者の緻密な取材も、徹底して関係者に会って人間としての有り様を聞き出していく態度も変わりはないのに、一気に内容が薄っぺらになるのだ。それは取材対象となった安倍晋三という人の人間性の薄さ、厚みのなさの結果である。
 安倍寛も、安倍晋太郎も、それぞれの人間としての厚みが見えていた。いかなる境遇に生まれ、何を考え、どのようにして決断し、自分の人生を自分で切り拓こうとしたかがはっきりと分かった。
 しかし、安倍晋三の取材からは、そのようなものが一切見えてこない。関係者からの聞き取りの結果見えてくるのは、恵まれた境遇の中、主体的に何かを選び取ることなく、決断することもなく、才気を輝かせることもなく、ただなんとなく易きに流れた結果、政治家になってしまった姿のみだ。
 おそらくネットに多い熱烈な安倍支持者は「それは著者が偏見を持っているからだ」と主張するところだろう。ところが、学生時代の友人や先生、サラリーマン時代の上司、さらには実兄の安倍寛信氏、あるいは昭恵夫人にまで取材をして、そのすべてが不気味なぐらいに一致しているのである。

 晋三は、1954年(昭和29年)に、晋太郎・洋子夫妻の次男として東京で生まれる。両親は山口で選挙地盤を固めるのに忙しく不在がち。父母にもなかなか会えない孫を溺愛したのは、母方の祖父・岸信介だった。小学校から成蹊学園に通い、一切受験勉強の荒波に揉まれることなく成蹊大学法学部政治学科を卒業。そのまま米国に留学。が、この米国での学歴が後に詐称であることが暴露されてスキャンダルになる。その印象は「政治家になるまでの腰掛け」として入社した神戸製鋼所でも変わらない。「要領は良いが、飛び抜けて優秀なわけでも、全くダメなわけでもない。優しいが影は薄い」。要するに信念がない。寛や晋太郎にはあった、人として依って立つ強固な芯がない。
 その一方で、地元山口の支援者から、大学での指導教官に至るまでが、内閣総理大臣になってからの、晋三の強面というべき政治姿勢を批判する。地元では古株の支持者が揃って「寛さんも晋太郎さんもああではなかった」と嘆く。成蹊大学で彼に国際政治学を教えた宇野成昭は、晋三の改憲論を「(彼は)憲法が何かも分かっていない気がします。もうちょっと憲法をきちんと勉強してもらいたいと思います」と強く批判し、彼が進めた安全保障法制を「私の国際政治学(の授業)をちゃんと聞いていたのかな、と思います」と皮肉る。父・晋太郎の弟・西村正雄でさえも、晋三の強硬な政治的態度に苦言しようとしていたことが明らかになる。

 このおよそ、優れた資質が見えない三代目は、2度目の内閣総理大臣の職にあって日本をどこに導くのか、という危機感で、2017年出版の本書は締めくくられる。

 2022年7月8日、安倍晋三は選挙遊説中に暗殺され、67年の生涯を閉じた。棺を覆いて事定まる。歴史的人物としての安倍晋三の評価はこれからがまさに本番であって、実際この1年で、生前には分からなかったこと、あるいは本書出版時の2017年には表に出てこなかったことが判明しつつある。
 その中で、本書が扱っていない重大な事実が二つある。ひとつは、旧統一教会との関係だ。この件については本書に示唆的な記述がある。岸信介の側近として衆議院議員を6期務め、その後も安倍晋三を支援し続けた吹田ナ(ふきだ・あきら、1927〜2017)の証言だ。民主党政権下の2012年、野党に転落した自民党の総裁選が迫っていた。吹田と安倍は面談し、その席で人払いした吹田は、安倍晋三に「再度自民党総裁を目指せ」と迫った。今は党内がそのような情勢ではないと渋る安倍に、吹田はこういった。

「あんたね、このままだと『敵前逃亡の総理大臣だ』と言われよるよ。現にマスコミはそう言っとる。安倍家として、岸信介の系統を継ぐ者として、ここはなんとしても名誉回復せないかんのではないかね」 (本書p.279)

 結果として、彼はこの年9月の自民党総裁選に出馬し、石破茂を破って総裁に復帰。同年12月の衆議院選挙で民主党が惨敗したことで、内閣総理大臣に返り咲いた。
 著者は「吹田の叱咤だけが晋三の決意の理由だったわけではないだろう」と書く。同時に「だがそんなもの(祖父・岸信介への想い)は所詮、世襲政治一家の勝手なプライドと私的な都合に過ぎない」と、斬って捨てる。その上で、著者のインタビューに応じた政治家の古賀誠(1940〜)の言葉を引用するのだ。「祖父ちゃんを追い越したいとか、父ちゃんを追い越したいなんていうのは、本来の政治の志とは違う」──。
 晋三死後の報道で、旧統一教会との関係が、この2度目の首相就任のあたりから強まったことが分かっている。祖父に強い想いを抱く彼が、吹田などの説得を機に、祖父の遺した旧統一教会とのコネクションを最大限に活用し、祖父の思い残しだった憲法改正を実現しようと考えたというのは、あり得るように思える。
 「要領は良いが、飛び抜けて優秀なわけでも、全くダメなわけでもない。優しいが影は薄い」人物が、首相の激務に耐えるだけの自我を支える確固たる芯を持とうとすれば、幼少時に溺愛してくれた祖父の面影にすがるしかないのではないか。
 だが、それは著者が、そして古賀誠が指摘する通り、まったく「政治の志」ではない。

 もうひとつ、本書で触れていないのは彼の健康問題だ。彼が若い時から潰瘍性大腸炎(クローン病)という慢性の難病を患っていたことは衆知のことだ。首相2期目の時は表立っては「新しい薬が効いたので」と説明していたが、彼をテーマとしたドキュメンタリー映画『妖怪の孫』(内山雄人監督、2023年公開)では、医師団が付いて徹底した健康管理を行って支えていたことを関係者が証言している。
 『妖怪の孫』にはもうひとつ気になるシーンがある。インタビューを受けた関係者のひとりが「彼は腸が1/3ないから」というのである。これは実は奇妙なことで──というのはクローン病の場合、腸を1/3も切除するということはまずないのだ。手術を何度も繰り返して結果的に腸が1/3なくなるということはあり得るが、彼がそんなに何度も腸切除の手術を受けたという話は表に出ていない。
 「腸が1/3ない」というと、考え得るのは、1)低体重で出生した乳児が起こしやすい壊死性腸炎、2)ヒルシュスプルング病──ぐらいである。1)はそのままでは死亡してしまうので、速やかに腸の壊死した部位を切除する必要がある。2)は先天的に腸の一部に神経がないという病気だ。こちらも神経のない部位で重篤な便秘を起こし生命の危機となるので、神経のない部位を切除してつなぎ合わせる必要がある難病である。いずれにせよ、「彼は腸が1/3ないから」という発言は、彼が腸に二つの病気を重ねて持っていた可能性を示唆する。
 そして調べてみると、彼は首相2期目の2013年5月19日に、九州大学病院をヒルシュスプルング病の研究を視察するために訪問しているのである。つまり彼は、ヒルシュスプルング病に特別の興味を持っていた。

 彼の持病について、支持者たちは「病気で差別すべきではない」と擁護していた。が、実は政界には暗黙のルールが存在する。

 「病気の者は責任ある地位についてはならない」。

 病気で政務が滞っては国民に対する義務が果たせないし、病気のために判断が鈍れば、それこそ国の死活問題になるからだ。
 岸信介のライバルであった石橋湛山は1956年12月、岸信介を退けて自民党総裁となり、内閣総理大臣に就任した。負けた岸は副総理に回った。が、翌年1月、石橋は脳梗塞を発症する。症状は軽くすぐに回復するものと思われた。実際、その後石橋は1973年まで生きたので、そのまま内閣総理大臣を務めたとしても問題は起きなかった可能性が大きい。が、石橋は責任を果たせないとして総理在任65日で辞職。その席を岸に譲った。
 内閣総理大臣の責務はそれぐらいに重いのだ。
 安倍晋三が、腸に二つの問題を抱えながらも総理を目指したとしたら、それは国民への背信である可能性を考えねばならない。それどころか、健康であることが絶対条件の政治家を志したことそのものが間違いということになる。

 本書で昭恵夫人は、夫のことを「映画監督になりたい人だった」と語っている。あるいは、政治家の家に生まれてなおも映画の道に進んでいたら──逆説的ではあるが、彼は政治家に必須の「自分の運命を自分で切り拓く」体験をして、政治家に相応しい自我を確立できたのかもしれない。
 いずれにせよ、歴史的人物としての安倍晋三の評価はまだ始まったばかりだ。本書にはその研究の一助となる、貴重な証言が詰まっている。


【今回ご紹介した書籍】 

●『安倍三代』
青木 理 著/四六判/296頁/品切れ中/2017年1月刊/朝日新聞出版/ISBN 9784023315433
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=18758
※電子書籍があります。

※上記の単行本は版元品切れ中で、文庫版(下記)が入手可能です。
青木 理 著/文庫判/328頁/定価792円(税込)/2019年4月刊/朝日新聞出版/ISBN 9784022619617
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=20890

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2023
Shokabo-News No. 388(2023-9)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター。1962年東京都出身。現在、日経ビジネスオンラインにて「チガサキから世間を眺めて」を連載の他、「Modern Times」「Viwes」「テクノトレンド」などに不定期出稿中。近著に『母さん、ごめん。2──50代独身男の介護奮闘記 グループホーム編』(日経BP社)がある。その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数。
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura


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