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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第65回 「鹿野さん、ごくろうさまっ」

『サはサイエンスのサ[完全版]』(鹿野 司 著、早川書房)

 この“読書ノート”の連載のもうひとりの執筆者である鹿野司さんがこの世を去って2年、鹿野さんのライフワークと言うべき科学コラム連載の全部が、一冊の本にまとまって出版された(2024年9月刊)。
 「サはサイエンスのサ」は1994年から2022年の死の直前まで、「SFマガジン」誌に掲載された。2010年1月には、それまでの掲載分の中からのより抜きで単行本化され、その年の優れたSF及びSF関連作品を表彰する星雲賞を受賞している(第42回[2011年]、ノンフィクション部門)。
 完全版と銘打たれた今回の本は、28年間の連載のすべてを収録している。全648ページ、書きも書いたり28年という印象だ。
 お値段も消費税込み4840円とけっして安くはない。が、これは是非とも買って読んでほしい。ここには鹿野司という透徹した知性が遺した、科学について、社会について、人間についての思考がすべて詰まっている。

 この大部を読んでいくと、鹿野さんの立場が一貫していることに気が付く。
 ひとつは「未来は明るい」という楽観的な視点だ。その一方で、彼は明るさに至るまでの道のりが簡単にはいかないというリアリズムも併せ持っている。
 もうひとつは、「なんだよね」という語尾が醸し出す、「エラそうでない」感だ。彼は、けっして上からの物言いで物事を語ることはしなかったし、難しい単語を並べて人を煙に巻くようなこともしなかった。親しみやすい物言いで、難しいことを平易に語った。
 このあたりは、実は本人に会って話していても同じだった。その意味では、鹿野さんにとっての科学コラムとは、本人の人格の発露でもあった、という気がする。

 ──と、いうようなことは、今更言うまでもないのかもしれない。本書の巻末に収められた堺三保氏の手による解説も、鹿野さんの楽観性と、上からは語らず低いところから上を語る視線について語っている。ちなみに本書には、映像作品の設定考証で付き合いのあった白土晴一氏、裳華房“読書ノート”の連載をともに担った私、そして締めに親友であったマンガ家のとり・みき氏と、3人が追悼文を寄せている。

 28年分を通して読むと、鹿野さんには、一貫していくつかのテーマに興味があったということが見えてくる。
 まず人間。それも人間の認知の仕組みのありようだ。本書の中で鹿野さんは何度も、「人間の非合理な認知」について語っている。類人猿が現実をあるがままに受け止めているのに対して、人間の認知は、色々と歪んでいる。しかし、その認知の歪みこそが人間を人間たらしめ、文化を創る原動力となっているという主張が、本書では何回も繰り返される。
 そして進化論。正確には進化論というよりも生命は、さらには知性というものは一体どこに向かうのかという、生命進化に伴う倫理だ。これは先述した人間の認知の歪みと相まって、人を人たらしめている非合理性が、人をどこに導くのかという問題意識につながる。

 そう、「サはサイエンスのサ」は、タイトルにサイエンスと銘打ちながらも、実は科学のみを語っている回は非常に少ない。ほぼ毎回、科学と人間存在(人間の認知)、科学と人間社会、科学と倫理というように、つまるところ「科学と我々」と要約できる内容を展開している。
 その意味で、鹿野さんが目指したものは、理系的な知と人文的な知の統合であったように思われる。人間にとって圧倒的な存在である自然を、宇宙を、理系的な知で理解しつつ、その確固たる理系の知のバックグラウンドの上に、「人間は、社会は、どうなるのか、どうあるべきか」という人文的な知を展開しようとしていたという気がする。
 このような統合を目指した人は前にもいた。例えば南方熊楠(1867〜1941)がそうだ。高野山の学僧・土宜法龍(1854〜1923)への書簡に現れる「南方マンダラ」と呼ばれる図は、南方が文理の知、主観・客観の知をひとつのパースペクティブの中に統合することを夢見ていたことを示している。

 南方と鹿野さんを分けるのは、その統合の中での主観の位置付けだろう。
 南方は自然と自分の関係を、対等のものとして考える。自然科学とは別に、「自分の主観において、自然はどのように見えるか」を重要視するわけだ。南方は、幼少時に「和漢三才図会」を筆写するところから、知の探求を開始した。和漢三才図会は、基本的に目に映る自然を主観の側から捉えていったカタログだ。だからその中には、幽霊や人魂のようなものも入っている。
 和漢三才図会から出発した南方熊楠において、主観と客観は対等に拮抗するものだった。

 対して鹿野さんは、熊楠よりも近代人だ。近代の思考の特徴は、「自分を特別なものと考えない」というところにある。
 平凡原理と呼ばれる思考の原則がある。地動説が思考の端緒にあることから、コペルニクスの原理とも称される。
 天動説では、地球は宇宙の中心という特別な場所にある。しかし、コペルニクスの地動説では、地球は世界の中心ではない。世界の中心は太陽に移り、地球は他の惑星とともに太陽の周囲を回るという、より平凡な位置を占めることとなる。
 その後の天文学の進歩により、太陽もまた宇宙の中心という特別な位置から滑り落ちた。太陽は銀河系という多数の恒星の集団の中のひとつの星に過ぎない。もちろん銀河系の中心に位置しているわけでもない。そして、銀河系も特別な場所ではない。宇宙に存在する多数の銀河の中の、ごく平凡なよくある銀河でしかない。

 同じようなことは人間という存在についても言える。たとえばキリスト教では、人間は神と契約した、他の動物とは異なる特別な生き物だ。その後、ルネサンス期を迎えても、人間は言葉を持ち道具を使い大規模な社会を形成する、他の動物から隔絶した特別な生き物だ、という認識は続いた。
 チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)が、『種の起源』(1859)を著したところから、人間存在の平凡化が始まる。進化が事実なら、人間と動物はつながっており、人間は動物の一種ということになる。動物学の進歩により、道具を使う動物もいれば、社会を構成する動物もいるし、かなり複雑な言語に相当するシグナルを呼び交わす動物がいることも分かってきた。
 では、人間を人間たらしめているのは何か。高い記憶力か、自分を自分と認識できる自我か、それとも抽象概念を扱えることか。心理学や脳科学の発達で、それらも怪しくなっていく。人間は進化により、一層優れた存在になったのではなく、外界への適応形態として、自我という道具を形成し、抽象概念を扱えるようになったのだ、ということが明らかになってきた。
 鹿野さんは、科学が平凡化原理を徹底していくことを受け入れて、さらにその先を考えていこうとする。「我々の脳の中には、論理的な思考をする専用回路のようなものは、たぶん存在しないんじゃないかな。推論は、ある分野の膨大な知識があってはじめてできるのであって、論理的な思考力ってのはそのプロセスから浮かび上がる見かけ上の存在というか、幻のようなものじゃないかって思うんだよね。」(本書p.491 「進化論が理解しにくいのは(その6)」)とか、さらっと書いたりもする。
 その一方で、前提として「今のところ知られている動物の中で、唯一ヒトだけがやる特別な行動がある。それはヒトがものすごくお節介で、教えたがりってことだ」(本書p.489)と指摘したりもする。多少風変わりではあるが、別に特権的地位を占めるわけでもない平凡な生き物の一種としてヒトをとらえ、ヒトと自然の関わりを考察していく。

 鹿野さんの視線は、けっして人間や人間社会というものを突き放したりはしない。間違った主張……いわゆるトンデモ科学……について、それは間違っていると指摘しつつも、人間はそういう「物語」を必要とすることもある、として、全否定で徹底的に叩くということはしていない。
 その一方で、福島第一原子力発電所の事故を契機に書かれた一連の「ほうしゃのうの恐怖」と題したシリーズでは、社会の中の放射線、放射性物質への恐怖が、歴史的経緯の中で過大になっていることをあっさりと身も蓋もなく指摘したりもする。

 「でも、ぶっちゃけ、高エネルギー廃棄物は、過去50年くらいに稼働した原発すべてからでてきたものの合計で数十万トンのオーダーでしかない。これって重さにして大型タンカー一隻とか二隻分だ。
 これに比べたら、ナントカしなきゃいけないといわれる炭酸ガスの量は、年間五百億トンのオーダーだからなあ。」(本書p.469)というくだりは、連載時に読んで、確かにそうだと思った。
 当時私は、「一度海水に放出されたら回収不可能で、有史以来人類が水銀を採掘・利用し始めてから増え続ける一方の海水中の水銀と、1000年のオーダーで見れば確実に消えることが物理的に分かっている放射性同位体とで、どちらが本質的に危険なのか」と考えていたので、鹿野さんの指摘に、「お説ごもっとも」と頷くしかなかった。

 ああ……、20代から「ログイン」誌で長期連載した「オールザットウルトラ科学」がホップ、「サはサイエンスのサ」がステップなら、この次にはジャンプがあったのではなかろうか。もし鹿野さんが“ジャンプ”を書くことができたならば、それが南方熊楠が目指しつつも果たせなかった、主観と客観を統合した総合的な世界の見取り図の提示に至っていたのではないだろうか──本書を読んでいくとそんな気分になる。
 「オールザットウルトラ科学」が鹿野さん20代から40代、「サはサイエンスのサ」が30代から63歳で逝去するまでの仕事と考えると、あと30年、いや20年でも時間があれば、なにか“ジャンプ”があり得たのでなかろうか。

 それを許さなかったのは、鹿野さんの体を蝕んだ病気──解説で堺さんが書いているから、ここに記してもいいだろう──糖尿病だった。
 「鹿野君は『堺君や白土君に、自分の病気の話をすると、怖い怖い〜って、逃げちゃって聞いてくれないんだよなあ』と言っていた」とは、葬儀に参加していたデザイナー・映画監督の出渕裕さんの言である。理知的な堺・白土両氏が恐れて逃げる──それぐらいに壮絶な闘病は、「サはサイエンスのサ」を連載していく中でも度々本人が書いている。
 きちんと節制もするし、テニスや自転車で日頃からせっせと体を動かしていた鹿野さんが、なぜ重度の糖尿病を発症したのか。今となっては何が原因かを詮索しても意味はないのだろうけれど、不思議である。
 ひとつはっきりしているのは、鹿野さんが最後まで病気と科学的・合理的に戦ったということだ。つらくなかったはずはないし、自分の死を考えると怖くなかったはずもない。しかし、積極的に病院に通い、必要なら入院し、手術も受け、打てる手を意志的にひとつずつ打って、ひるまなかった。
 しかも、そこにはいつも、なにがしかのユーモアを漂わせていた。

 鹿野さんが亡くなられた後、とり・みきさん以下友人一同が、最後の住処を片付けに訪問した。まずはパソコンの中の原稿類をサルベージしなくてはいけないが、パスワードが分からない。
 すると、ディスプレイの裏側に、付箋が貼ってあるのが見つかった※。鹿のイラストが入った付箋に、鹿からの吹き出しに曰く「パスワードは9317ダヨ」。自分に万一のことがあったら、という覚悟があったのだろう。
 たしかに、9317でパソコンのロックは解除できて、原稿はまとめてサルベージされた。

 9317──すなわち「クサいな」。

 もうっ、鹿野さんっ……自分の死に備えて準備するパスワードがそれ? 私は泣けばいいのか笑えばいいのか分からなかった。
 いや、「泣くのはイヤだ、笑っちゃおう」。今、私たちの手元には『サはサイエンスのサ[完全版]』があるのだから。

 あらためて笑って言おう。「鹿野さん、ごくろうさまっ」。


※編集部註:付箋の画像は裳華房Webサイトの本コラムのバックナンバー頁に掲載してます。
https://www.shokabo.co.jp/column/matsu-65.html



【今回ご紹介した書籍】 

●『サはサイエンスのサ[完全版]
鹿野 司 著/A5判/648頁/定価4840円(税込み)/2024年9月25日発行/
早川書房/ISBN 978-4-15-210360-4 C0040
https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210360/

※電子書籍もあります。
https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000614650/

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2024
Shokabo-News No. 400(2024-10)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター。1962年東京都出身。現在、日経ビジネスオンラインにて「チガサキから世間を眺めて」を連載の他、「Modern Times」「Viwes」「テクノトレンド」などに不定期出稿中。近著に『母さん、ごめん。2──50代独身男の介護奮闘記 グループホーム編』(日経BP社)がある。その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数。
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura


※「松浦晋也の“読書ノート”」は、裳華房のメールマガジン「Shokabo-News」にて隔月に連載しています。Webサイトにはメールマガジン配信後になるべく早い時期に掲載する予定です。是非メールマガジンにご登録ください。
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