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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

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第67回 才人画家が見た関東大震災、体験した権力による検閲

『関東大震災と流言 −水島爾保布 発禁版体験記を読む−』(前田恭二 編著、岩波ブックレット)

 新型コロナウイルス感染症による世界的パンデミックが発生した2020年以降、オンラインで、電子書籍を買うことが増えた。私の場合、気がつくと複数のオンライン書店でそれぞれ1000冊以上の本を買っている。
 今でも電子書籍を完全に信用しているわけではない。なにしろなんらかの理由でアカウントが凍結されてしまうと、買った本はすべて消滅してしまう。電子書籍は所有権を買うわけではなく、閲覧する権利を買うからだというのだが、紙の書籍と比べると明らかにサービスの後退だ。
 電子書籍だって、他者に譲れるべきだし、古書市場での流通とまでは言わないまでも、死後の相続に関しては引き継ぎができるべきと思うのだが、今のところ、そうはなっていない。
 それでも、すでに本棚が物理的にいっぱいになってしまっている身としては、紙の本を買うよりも電子書籍を買うほうが、ずっと心理的抵抗が低いのは間違いない。最近はかなり専門的な本もオンラインで読めるようになり、重宝しているのもまた事実である。

 そんな電子書籍では、気になる面白そうな本を見つけるのにも、オンラインの情報を使うことが多い。主にSNSで読書家の方をフォローし、彼ら彼女らの書き込みの中から、自分の興味を引く本を見つけるというのが日課となっている。
 今回紹介するのは、そうやって見つけた本だ。

 水島爾保布(みずしま・におう、1884〜1958)という名前を見せられても、それがどんな人かすぐに思い出せる人はかなり少ないだろう。大正から昭和の前半にかけて活動した日本画家であり、日本最初期の漫画家でもあり、また随筆家でもあったという人物である。
 SF作家・今日泊亜蘭(きょうどまり・あらん、1910〜2008)の父であると言うと、SFファンなら「ああ、なるほど、そういう人か」と思うかもしれない。今日泊亜蘭、本名・水島行衛(みすしま・ゆきえ)は博学、かつ独特の気っぷの良い文体で知られた人だった。
 と、すると、その父も相当な博学かつ面白い文体で文章を書く人だったのでは、と思った方。あなたは鋭い。

 今でこそ半ば忘れ去られた存在となっている水島爾保布だが、間違いなく才能豊かな人物だった。
 谷崎潤一郎と組んだ挿絵と文章が緊密に組み合わさった豪華装丁の小説集『人魚の嘆き・魔術師』(1919年、春陽堂刊)は、2020年に春陽堂から復刊され、さらに2022年には中公文庫に収録されて、今でも新品の本として入手することができる。本書にもいくつか水島の手による日本画や書籍挿絵が掲載されているのだが、一見して相当に鋭い美意識を感じさせる。

 本書は、その水島爾保布の書いた、1923年9月1日に発生した関東大震災の体験記「愚漫大人見聞録(ぐまんたいじんけんぶんろく)」を、編著者である前田恭二氏(武蔵野美術大学教授)による解説とともに収録している。

 その解説がまた一筋縄ではいかない。
 水島の書いた「愚漫大人見聞録」は1923年4月に発行された水島の著書『新東京繁盛記』に収録された。
 ところがこの『新東京繁盛記』は、発売当日に内務省によって発禁処分となってしまう。同年6月に改めて発売された改訂版では「愚漫大人見聞録」は削除されてしまった。つまり発禁の理由は「愚漫大人見聞録」にあったのである。
 ところで、内務省の検閲官が読んだ『新東京繁盛記』が、国立国会図書館に保存されていた。本には、検閲官が書いたと思われる書き込みがあった。検閲の書き込みは「愚漫大人見聞録」に、しかも関東大震災最大の社会的汚点となった朝鮮人虐殺の原因となった流言と、それに関連する暴力の記述に集中している。
 つまり、検閲で「愚漫大人見聞録」の朝鮮人虐殺の記述が問題になったために、削除の上改訂版を出版したらしい。

 改訂版で、水島は以下のような文章を付け加えた。

寺門静軒の江戸繁昌記は官僚官需を目の敵にやつつけたので幕譴を蒙ったと同様、本書も亦ある問題に対して少しタンカを切り過ぎて一旦は発売を禁止されたが、今度お上の役人衆と話し合ひがついて、タンカの一部を訂正して出すことになりました。改訂したからつてつまらなくなつたわけではありません。−著者−

 実際には、「愚漫大人見聞録」全編という大規模な削除を行うことで、やっと出版が可能になったのであった。

 前田教授は、水島の文章を解説するのと並行して、どこに検閲官が書き込みをしたか、それは何を問題としてのことだったかを明らかにしていく。
 つまり本書は、第一に水島爾保布という才人が残した知られざる文章の紹介であり、第二に関東大震災のかなり生々しい体験記であり、第三に当時の国家権力が朝鮮人虐殺をどのように考えていたかを示す歴史的資料であるという、「一粒で3度、知的においしい」という内容なのである。これで面白くなかったらどうかしている。
 本書からは、1923年から24年にかけての日本社会が、立体的なパースペクティブを持って目の前に立ち上がってくるのである。

 地震発生時、水島は友人たちと帝国ホテルにいた。大きな揺れに驚いて外へと逃げ出し、向かいの日比谷公園に避難するが、揺れが収まるとさっそく友人らと軽口を叩き合う。が、むしろその様子は、異常事態に直面した人が興奮状態になって騒いでいるかのようだ。水島は自分たちの興奮状態をも、冷静に分析し、「たつた今のさつき、地面のドン底から、グーンとひとつ揺り上げられて、目の色唇の色迄変え、醜態の限りを曝けて慌てふためいた事なんかは、僕も友達も、もうケロリ忘れていた。いや忘れたやうにお互に努めてゐたんである。」と書く。
 「愚漫大人見聞録」は全編がこのような調子の漫談調の気っぷの良い文体で書かれている。それは、どこか今日泊亜蘭の『宇宙兵物語:外惑星野郎ども』(早川書房)あたりのSFを連想させ、「さすが今日泊亜蘭のお父さん」という気分になる。
 日比谷公園の記述には水島が描いたイラストも掲載されている。どこか和田誠を思わせる洒脱なもので、彼の才能の幅の広さを感じさせる。

 場所は、水島の自宅のある根岸へ移り、「安政の地震のほうがすごかったね」と語り、「あの時は水戸の長屋で藤田東湖がヒツ潰されたよ──(中略)──別段覚悟もしなかった地震にペツシャリやられちまうなんかア、……誠にはや、人間つてえもののつまらなさを見せに生まれてきたやうな男だつたな。」と、藤田東湖(1806〜1855)の悪口を言うボー鱈先生という古老が登場する。この「ボー鱈先生」のように、登場人物はすべてあだ名で記述されている。
 前田教授による注解によれば、このボー鱈先生は、あの『言海』を編纂した国語学者の大槻文彦(1847〜1928)らしい。つまり、関東大震災の直撃を受けた東京には、まだ江戸を知る人がいっぱい住んでいたのである。うわあ、面白い!
 さらに水島は「津波が来る」という流言に動揺する人々を描く。関東大震災では相模湾から伊豆半島にかけて津波が来たが、もちろん東京の根岸まで津波が来るはずはない。前田教授は地震の13年前、1910年に東京下町を襲った洪水の記憶が影響しているのではないかと分析している。

 この後、酒を飲んで「痛快ですね。僕とても愉快でたまらない。三越もそれから帝劇もペロペロと燃えちゃつたんですぜ」と語り、さらに「いや痛快だ。僕はこの革命的天災の前に今迄大きな面してゐた奴が……態(ざま)アみやがれ、プロレタリヤ万歳だ。すべてが平等になるんだ。」と叫ぶカン君という若者が登場するあたりから、俄然内務省の検閲官のものらしき傍線書き込みが一気に増える。
 つまり、権力の側はそういう発言をする者がいたということが世間に知られるのを好まなかったわけだ。今の我々の視点からは、「そういう視点で大地震を見ていた者もいるのか」という感想になる。
 水島もこのような記述が検閲に引っかかる可能性は意識していたようで、むしろ文章としてはカン君を諫める調子の書き口となっている。
 また、迷惑が及ばないようにするためだろう──カン君が誰であるかについては一切記述していない。それでも発禁を逃れることはできなかったのである。

 朝鮮人が暴動を起こすという噂を水島のところに持ち込んだのは、中学1年生 だった彼の長男だった。つまり後の今日泊亜蘭である。

『朝鮮人が火を付けるんですって……そりやそうかも知れない。そりやそうかも知れませんよ。』と中学生はいつた。『日本人はふだんから朝鮮人をいぢめ過ぎますよ。僕、毎日見てるんです。』
 その一年生の学校では現に一部工事中なので、鮮人の土工が沢山這入つてゐた。それ等に対して日本人の土木請負人とか、土木技師とか、監督とかいふ連中が、如何に侮辱し、如何に酷使し、如何に暴虐を振舞つているかつて事は、一年生は殆ど目が痛くなる程見せつけられてゐたんである。

 もちろんこの部分も検閲の対象となった。

 ここで水島はすぱっと、朝鮮人暴動の流言がなぜ生まれ、なぜ虐殺が起きたかを簡潔に指摘している。
 日本人は庶民レベルで、普段から嗜虐の心丸出しで朝鮮人を虐待していたのである。なぜ平気で虐待できるかといえば、彼らが弱い立場でやり返してこないと知っていたからだ。しかし、震災で社会秩序は一時的に崩壊した。
 すると、恐怖が沸き起こる。普段は調子に乗って虐待していた連中が仕返しをするのではないか。
 日頃の虐待が、人が人に対して行うべきではない恥じるべき行いだと理解しているが故に、恐怖は増幅し、「朝鮮人が暴動を起こす」というデマになる。
 だったら、やられる前にやってしまえ、という意識から虐殺が発生した。そこには、社会秩序が回復すれば自分たちは社会的に強い立場に復帰し、虐殺の所業はもみ消せるという小狡い計算高さも透けて見える。
 前田教授によると、水島は必ずしも「愚漫大人見聞録」で体験のすべてを書いているわけではないとのこと。別の文章では、殺気だった自称自警団に半殺しの目に遭っていた中国人を、「彼は朝鮮人ではない」と身を張って助けた経験も書いているのだそうだ。実際、関東大震災では、千葉県検見川で沖縄の人が朝鮮人と誤認されて殺され、埼玉県熊谷市で秋田の人が同じく誤認で殺されている。

 2011年3月11日の東日本大震災の時、私はテレビ放送で、「中国人が自動車からガソリン盗んでいるという話を聞いてさあ、本当ならとんでもない、懲らしめなくちゃいけないと思って来たんだけど」と、津波が引いた後のがれき広がる元市街地で語る男のインタビューを見た。「うわ、これは、下手をすると関東大震災の朝鮮人虐殺の二の舞が起きるぞ」と心配したが、幸いなことに虐殺は起きなかった。
 これは、ひとつは社会全体が、関東大震災時に比べて暮らしよくなり、かつ人々の人権に関する認識が進歩した結果だろう。が、男の言葉は、同様の虐殺が起きる可能性が、まだ現代社会に埋み火のように残っていて、いくつかの不幸が連鎖すればまた悲劇は起きるであろうことを示していると言える。
 水島爾保布があっさりと指摘した、朝鮮人虐殺に至る日本の庶民の心理のありようは、けっして今の私たちにとっても他人事ではないのである。

 他方で水島は、庶民が世間知を発揮して冷静さを取り戻す様子も描き出す。

『一体鮮人や主義者だつていつてるが。そいつ等が何かしたのを見たつてものは一人もねぇぢやねぇか』と、西瓜を囓っていた車屋のカツさんがいつた。

 全編この調子で、読みどころ満載である。薄いブックレットのなのですぐに読み通せるだろう。これは是非、読んでみて欲しい。


【今回ご紹介した書籍】 

●『関東大震災と流言 −水島爾保布 発禁版体験記を読む−
前田恭二 編著/A5判/96頁/定価836円(税込み)/2023年8月発行/
岩波書店(岩波ブックレット)/ISBN 978-4-00-271083-9 C0336
https://www.iwanami.co.jp/book/b629846.html
※電子書籍もあります。

【編集部註】 
本文中に出てくる水島爾保布著『新東京繁盛記』は、日本評論社の創業100年記念復刊として、新装復刻版が2018年5月に刊行されています。
(四六判/240頁/定価2640円(税込)/日本評論社/ISBN 978-4-535-59605-4)
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7796.html

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2025
Shokabo-News No. 403(2025-5)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター。1962年東京都出身。現在、日経ビジネスオンラインにて「チガサキから世間を眺めて」を連載の他、「Modern Times」「Viwes」「テクノトレンド」などに不定期出稿中。近著に『母さん、ごめん。2──50代独身男の介護奮闘記 グループホーム編』(日経BP社)がある。その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数。
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura


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