第70回 日本はアメリカとどうつき合ってきたか、つき合っていくのか
『最後の30秒 −羽田沖全日空機墜落事故の調査と研究−』(山名正夫 著、朝日新聞社)
1966年(昭和41年)2月4日、北海道・千歳空港を出発した全日空が運行するボーイング727-100型旅客機が羽田空港に着陸する途中で、東京湾に墜落する事故が発生した。乗組員と乗客を合わせて133人が死亡。日本における大型ジェット旅客機初の墜落事故であり、当時、単独機の事故としては、史上もっとも多い犠牲者を出した墜落事故であった。
事故発生の翌日、2月5日に運輸省(現国土交通省)内に全日空機羽田沖事故技術調査団が設置され、団長に日本大学教授を務めていた木村秀政(1904〜1986)が選ばれた。木村は日本航空界の大御所であり、昭和初年から敗戦までの間に長距離飛行の世界記録を樹立した「航研機」の設計に参加したり、日本・ニューヨーク間飛行を目指した長距離機「A-26」の主任設計者を務めた経験をもっていた。敗戦後は日本大学教授として、1952年の航空解禁に合わせて軽飛行機「N-52」「N-58」「N-62」などを開発したり、国産旅客機「YS-11」開発にあたっては技術委員長を務めたりと、多彩な活躍をした。
事故調査は難航した。当時の旅客機は操縦席の音声や機体の挙動などを記録するブラックボックスを搭載していなかった。このため、事故調査は、地上側に残された交信記録、海底から引き上げられた機体全体の約90%に相当する残骸などを頼りに進められた。
それでもはっきりした原因は分からず、事故から4年8か月後の1970年9月29日に、「事故原因は不明」とする最終報告書が運輸大臣に提出され、事故調査は終了した。
が、ここまでには波乱があった。
事故調査に参加した、東京大学教授の山名正夫(1905〜1976)が、緻密な調査と実験から「727の機体に欠陥があったことが事故原因だ」と主張したのである。山名は戦争中、海軍航空廠に技術士官として勤務し、数多の軍用機の開発に参加した実績をもつ、練達の航空機設計者だった。
調査団長の木村と山名は鋭く対立し、結局、山名は事故調査委員を辞任した。 しかし、山名は諦めたわけではなかった。彼は1972年になって、自らの事故調査結果を一冊の本にまとめ、出版した。それが今回取り上げる『最後の30秒』である。
本書で山名が実践していく事故調査の手法は、航空機に限らずすべての事故調査の手本というべき緻密なものだ。
残された情報は限られている。主要な手掛かりは、回収された残骸だ。残骸の回収された位置と残骸の様子を緻密に観察し、仮説を立てて、その仮説を適切と思われる模型実験を構成して証明していく。これを繰り返すことで、題名にある全日空ボーイング727機が墜落に至るまでの“最後の30秒”に何が起きたかを時系列で整理していくのである。
事故の翌日に事故調査委員に任命された山名は、まず海底からの残骸引き揚げにあたって、各残骸の発見された位置を可能な限り正確に記録するよう要求した。衛星測位が存在しない当時、これはかなりの難事だったが、引き揚げ業者は、かなりのところまで山名の意向に沿って引き揚げを実施した。これにより、機体のどの部分がどの位置に沈没したかが分かり、そこから機体の破壊がどのように進行したかを定量的に分析することが可能になった。
山名の注目を引いたのは、機体を上から見た場合に右側後部胴体に装備していた第3エンジン関連の残骸だった。全日空727機は東から西に向けて飛行しつつ海面に接触して墜落した。まず、第3エンジンの上側覆いは機体の進行方向から見て一番最初に脱落していた。しかも第3エンジン本体は機体の主要な残骸よりも右方向、つまり北側にずれた位置に沈んでいた。さらに第3エンジンの破損は、左側の第2エンジンの破損よりもひどかった。山名はここで、第3エンジンから機体の破壊が始まった可能性に気がつく。実際残骸は、機体右後方、つまり第3エンジンの装着された付近が激しく破損していた。また、第3エンジンの噴射を行うテイルパイプという部位が第2エンジンのテイルパイプよりも激しくゆがみ、損傷していた。
エンジンは、エンジン前方2本、後方1本の合計3本のボルトで機体に固定される設計だった。エンジン周辺の残骸についた傷から、これらのボルトのうち前上のボルトが一番早く破断したことがわかる。では、なぜそうなったのか。しかもボルトが破断して外れた第3エンジンは、なぜ大きく北側にずれた位置で見つかったのか。
ここから山名は定量的な考察を行い、さらには模型実験を繰り返して墜落の状況を再現しようとする。その結果、第3エンジンで異常燃焼が発生してテイルパイプが変形し、異常な負荷がエンジン固定ボルトにかかって、前上のボルトが切断、エンジンが脱落したという事故シナリオに到達する。
では、なぜ異常燃焼が発生したのか。
ボーイング727は機体後方に3機のエンジンを装備している。機体が上向きの姿勢を取ると、エンジンには主翼の上下を通過した気流が当たる。そこで主翼の装備、特にエンジン前方の主翼面に装備している、地上でのみ動作する設計のグラウンド・スポイラーという速度を下げる装備を調べると、墜落時に開いていたと判断できる傷の状況であった。ここから、飛行中は開いてはならないグラウンド・スポイラーが開いてしまったという可能性が出てきた。開いたグラウンド・スポイラーで機体姿勢が乱れ、乱れた気流がエンジンを直撃して(いくつかのプロセスを経て)異常燃焼が発生し、エンジンが脱落したという事故シナリオが浮上したのだ。
この時期、新型のジェット機を導入した民間航空各社は、飛行時間の短縮による高速の旅行サービスを競っており、上空でスピード・ブレーキという装備を動作させて急速に高度を落として空港に着陸するという、今から考えると信じられないほど荒っぽい運用を行っていた。ここから、上空でスピード・ブレーキを開いたら、誤動作でグラウンド・スポイラーも開いてしまい、第3エンジンの異常燃焼を誘発してエンジンが脱落というシナリオを描くことが可能になる。
727はスピード・ブレーキとグラウンド・スポイラーは同じ操作系で開く仕組みになっていて、空中ではロックがかかってグラウンド・スポイラーだけが開かない仕組みになっていた。しかし、空中でグラウンド・スポイラーを動作させない機構の中に使われているクランクは、事故の少し前に「強度が足りない」という整備情報が出て新型のクランクに交換するようにとボーイングは指示していた。つまりクランクの強度不足が起点となって、事故が発生した可能性がある。
しかし、グラウンド・スポイラー動作機構はその全部を回収できなかったので、山名の調査を物的証拠で裏付けることができなかった。
事故から60年以上を経て、『最後の30秒』を読むと、当時の限られた調査手法で、山名が実に緻密な事故調査を行っていることに感嘆する。調査途中で山名は東京大学を定年退官し、明治大学に移った。この変化で、山名の使える研究資金はかなり減ったと想像される。それでも山名は工夫し、低コストかつ効果的な実験を考え出し、明治大学の学生たちとともに事故原因へと迫っていく。その山名が到達した推定事故原因は無理がなく、少なくとも事故の経緯や残骸などの物証との矛盾もない。
このような山名の主張は、事故調査団団長の木村秀政とは相容れないものだった。結局、山名は事故調査団委員を辞任し、最終報告書に関わることはなかった。
ボーイング727は、この事故の前年1965年に世界で3件の墜落事故を起こしていた。本書で山名も触れているが、その設計は性能優先で、旅客機として必須の安定性とか安全性を確保するための余裕が小さかったのは間違いない。
しかし、全日空機の墜落事故の後、民間航空機の安全対策は飛躍的に進んだ。機体にはブラックボックスが搭載されるようになったし、機長が一存でその操縦技量をふるって、ライバル各社と飛行時間の短縮を競うということもなくなった。その意味では、「原因不明」が結論であっても、時間をかけて事故調査を行った意義は小さくなかったと考えられる。
実のところ、今のタイミングで『最後の30秒』を取り上げた理由は、古手の航空関係者から次のようなことを聞いたからである。
山名先生は航空技術者としての良心に従い、行動した。しかしあの時、日本側からボーイングの機体に欠陥があるなどと言い出せば、アメリカがせっかく再起動した日本の航空産業を潰しにかかってくる可能性があった。だから木村先生は全てを飲み込んで政治的に振る舞うという選択をし、原因不明という報告書を出して、日本の航空を守ったのだ。
えええっ、そうなのか?!である。が、これまでアメリカがどのようにして日本を便利使いして動かそうとしたかを考えると、陰謀論としてむげに排除するわけにもいかない意見である。
サンフランシスコ講和条約以降の日本の政治の中には明らかに、アメリカに権力を支えてもらって政権に居座るという発想がある。その始祖は、岸信介(1896〜1987)であろう。岸は1960年の日米安全保障条約改定で、より条約を双務的にしたが、それは日本をアメリカにとってより便利な道具として使えるようにするということを意味していた。昨今、日本国内における米兵犯罪の扱いで不平等とされる日米地位協定も、その一部である。
岸の政治資金には今なお謎の部分が多いが、その一部はアメリカからのものであった。米政府→日本政府に軍用機などを売り込む米メーカー→日本側代理人→岸、という資金の流れがあったことは複数の筋が証言している。それとは別に、米公文書の公開状況からも、米政府から岸への資金提供があったことは確実視されている。規定の年限を過ぎても公開されない岸関連の公文書が少なからず存在するのだ。
私個人としては、1989年から1990年にかけての日米通商交渉での日本の衛星市場開放が記憶に鮮明である。それまで日本は、護送船団方式の随意契約で日本メーカーに官需衛星を発注して宇宙産業の育成を図ってきた。が、このときアメリカから市場開放を要求され、日本政府はあっさりと屈した。日本の衛星各社の技術は世界一線級とは言いがたく、国際公開調達となった官需衛星市場は米メーカー製衛星に席巻され、日本の衛星産業は20年以上の後退を余儀なくされた。当時私は、宇宙分野を取材する二十代の駆け出し記者だったが、政治があれよあれよという間に日本の産業を一つ見捨てる様を唖然呆然で見ていた。
その後の「年次改革要望書」に代表される市場開放の美名を借りたアメリカへの譲歩は、そのまま高市早苗現首相の「トランプ大統領の横でピョンコピョンコはねてはしゃぐ」までつながっている。
今、明らかに、世界史のフェイズが変化しつつある。米トランプ第二期政権は、過去一世紀以上にわたってアメリカの外交が世界に積み上げてきた信頼を破壊しつつある。一度毀損された信頼を取り戻すのは容易なことではない。アメリカは世界の中心から滑り落ちつつある。
その時、太平洋を挟んだ島国──しかも長年アメリカに依存する政治勢力がメジャーであった国は、未来に向けてどう振る舞うべきなのか。
本書は、60年前の航空機の事故調査のまとめでしかない。しかし、内包する問題は航空機事故調査を超えて、大変に巨大である。
【今回ご紹介した書籍】
●『最後の30秒 −羽田沖全日空機墜落事故の調査と研究−』
山名正夫 著/四六判/428頁/1972年2月発行/朝日新聞社(版元品切れ中)
「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2026
Shokabo-News No. 409(2026-5)に掲載
【松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】
ノンフィクション・ライター。1962年東京都出身。日経ビジネスオンラインにて足かけ4年にわたって連載してきた「チガサキから世間を眺めて」が今年3月に終了。近著に『ロケットサバイバル2030』(日経BP社)、『日本の宇宙開発最前線』(扶桑社)がある。その他、『母さん、ごめん。2』『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数。
X(旧Twitter)アカウント https://x.com/ShinyaMatsuura
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