第5回 介護現場に見出された新しい豊かな世界
『驚きの介護民俗学』(六車由実 著,医学書院)
母は昔、折にふれて色々なことわざを、幼い私に教えてくれたものだ。それは早くに他界した祖母が母にそうしたからだという。かつて母は、そんな話を嬉しそうに、懐かしそうに話してくれたことがある。
こんな私でも、著書にサインを求められることがあるのだが、母が他界してからこちら「禍福は糾える縄のごとし」「人生万事塞翁が馬」といった言葉も書き添えるようにしてきた。それは、少しの感傷と、人生や運命とは本当にそういうものだなあという実感があるからだ。今回紹介する『驚きの介護民俗学』(医学書院)もまた、この言葉がふさわしい書物のように思える。
著者の六車由美さんは、8年間にわたって大学で民俗学を専攻し、様々な土地でフィールドワークを行うとともに、学生たちにその実際を指導してきた。しかし、「縁あって」介護施設に勤めるようになったという。
そこで著者は、本書の題名にある通りの驚きに巡り会う。
夕食を待っていた一時、認知症のお年寄りが作り物の柿をもいで、ふと歌い出した歌は「成り木責め」という民俗儀礼の時に歌われるものだった。慌ててメモ帳をとりだし、その歌詞を書き留めるためもう一度歌ってもらうように頼むと、そこから子どものころの様々な体験を話してくれたという。さらに、まわりにいた人たちも、うちではこんな文句だった、こんなやり方をしたと、話はさらに広がっていった。
民俗学のフィールドワークといっても、今では、明治や大正初期の世代はすっかり減って、山村に足を運んでの聞き取り調査は、次第に困難になってきている。一方で介護施設には、これらの世代の人々が、地域を越えて集まってきており、貴重な知識の宝庫となっていたのだった。
あるデイサービス利用者は、かつて朝鮮牛を飼っていた。朝鮮牛とは何なのですかと尋ねると、それは赤毛の農耕用の牛だという。
貧農は狭い田畑を耕すために牛を飼う。牛は歩みが遅くて狭い田畑しか耕せないが、老いて耕作に向かなくなった後は、食肉として馬喰(ばくろう)に買い取って貰える。一方、馬は動きが早く、広い田畑を耕すに適しているが、老いても食肉として売れず、馬喰に金を払って引き取って貰わなくてはならない。つまり馬を使う田畑の持ち主は、それをしてもやっていけるだけの裕福な農家ということだ。
機械化以前の農業では、馬や牛が農作業に使われていた事は知られていた。しかし、その使い分けは地域性のようなものだろうと漠然と思われていただけで、そこに経済的な意味合いがあるとは、これまで誰も指摘したことはなかった。
また、馬喰と呼ばれた人々は、言葉は広く知られているものの、民俗学的には1960年の宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)の「土佐源氏」の章の中にわずかに触れられていただけで、馬喰をメインテーマに掲げた研究はそれ以降もほとんど無い。しかし、この聞き取りから、馬喰は村人との信頼関係を結び、村と村の間の情報交換や、婚姻の仲介などもしていたという全く知られていなかった事実が明らかになる。老人ホームでのテーマを定めぬ聞き取りの中から、それまでの民俗学者が出会わなかったテーマや、採り上げられなかった生き方をした人々の存在が幾度となく浮かび上がってくる。
一方でこの聞き取りは、施設を利用する高齢者たちに、喜びを取り戻す力をも持っていた。
施設利用者たちは、普段は明るく振る舞っている人でさえ、肉体や精神の衰えを日々感じ、自分は厄介者、これ以上生きていてもしかたないと強い失望を感じている。しかし、自分が生きた人生に、深く真剣な関心を向けられて、人として遇されるうちに、そんな失望からも解き放たれていく。
ある運命の巡り合わせによって、民俗学者が介護現場に巡り会い、全く新しい豊かな世界が見いだされた。この書を介して、あなたもその感動と幸福を感じ取ることができるだろう。
◆『驚きの介護民俗学』≪シリーズ ケアをひらく≫
六車由実 著/A5判/240頁/定価2200円(本体2000円+税10%)
2012年3月発行/医学書院/ISBN978-4-260-01549-3
https://www.igaku-shoin.co.jp/book/detail/84380
「鹿野 司の“読書ノート”」 Copyright(c) 鹿野 司,2013
Shokabo-News No. 284(2013-2臨時配信号)に掲載
【鹿野 司(しかのつかさ)さんのプロフィール】
サイエンスライター.1959年愛知県出身.「SFマガジン」等でコラムを連載中.主著に『サはサイエンスのサ』(早川書房),『巨大ロボット誕生』(秀和システム),『教養』(小松左京・高千穂遙と共著,徳間書店)などがある.ブログ「くねくね科学探検日記」
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