第7回 医薬品開発をめぐる栄光と悲運
『サルファ剤、忘れられた奇跡』(トーマス・ヘイガー 著,中央公論新社)
自分の予想を超えた、面白い本を手にすることは無上の喜びだ。今回紹介する『サルファ剤、忘れられた奇跡』(トーマス・ヘイガー著)は、久しぶりに出会ったそんな一冊だった。
サルファ剤という単語は、かなり昔から耳に覚えがある。しかし、改めてそれが何だったか思い出そうとすると、古い薬の名前のはずだけど……どんな薬だっけ?と、曖昧なイメージしか浮かんでこなかった。
サルファ剤とは、1935年にドイツのゲルハルト・ドーマクが発見した赤い色素、プロントジルにはじまる、数千種類にも及ぶ抗菌剤群だ。抗生物質と似た薬品だが、抗生物質は定義上生物由来なのに対して、サルファ剤は純粋に化学合成によって作られる。
ドーマクは第一次大戦に衛生兵として参戦、戦場で、傷口からの細菌感染で敗血症やガス壊疽を起こし、命を落とすたくさんの兵士たちを目の当たりにする。戦後医師となった彼は、当時世界最大の化学メーカーだったドイツのIG・ファルベン社で、抗菌薬の開発に挑み、さまざまな色素を調べ上げることで、プロントジルがマラリアに有効なことを突き止めた。
その直後、怪我を負った愛娘が敗血症に陥ってしまう。ドーマクはすがる思いで娘にこの物質を投与したところ、想像を超える効果で敗血症が完治し、それがこの系統の多様な薬剤の開発につながっていく。その効き目は、人を害さず、病原体だけを選択的に殺すことから、「魔弾」と称えられたほどだ。
これほどの効果がある薬が、なぜ今あまり身近ではないのか。一つは耐性菌が出現しやすいうえ、交叉反応で1種類のサルファ剤に耐性をもった菌は複数のサルファ剤に耐性をもってしまうからだ。そしてもう一つは、抗生物質の台頭だ。最初の抗生物質ペニシリンが見つかったのは1929年だが、1950年から市場に出回ったストレプトマイシンが、不治の病だった結核を圧倒的に征圧する。
この時期を境に、サルファ剤は急速に忘れ去られ、現代の我々にはほとんど馴染みのない薬になっているわけだ。
ドーマクはなぜ新薬探索の対象として色素を選んだのだろうか。20世紀初頭、透明な細胞を観察するため、細胞染色に取り組んだエールリヒは、ある特定の細胞や細菌だけを選択的に染め上げる色素があるなら、この仕組みを使って、病原体だけを倒せるのではないかというアイデアにたどり着いた。これが薬剤で病原体を倒すという、今日の化学療法に受け継がれる画期的な概念の創造だった。
エールリヒの直弟子の秦佐八郎は、1910年に梅毒の特効薬サルバルサンを開発。その特許は、IG・ファルベン社に受け継がれたが、その後途切れていたエールリヒのアイデアを復活させたのが、ドーマクだった。
サルファ剤が広く世界で用いられたのは、第二次世界大戦をはさんで十数年ほどだった。しかし、このわずかな期間に、今日にもつながる、科学と医薬、倫理、社会と経済にまたがる大きな影響と変革をもたらしている。
ナチスが行った人体実験の多くは、新しいサルファ剤の薬効を試すために行われたものだったし、抜群の効果をもつ医薬品をめぐって、史上はじめて独仏の特許紛争が繰り広げられた。アメリカでは、水にもアルコールにも溶けないサルファ剤を、有毒性が知られていなかったエチレングリコールに溶かして、甘い香りつきのエリクシール剤として売り出し、多くの子供たちの命が奪われた。これが史上最初の薬害であり、この悲劇が、今日のアメリカ食品医薬品局(FDA)の誕生につながっている……。
サルファ剤をめぐるさまざまなできごとは、現代の我々の社会や世界観の成立に、大きな影響を及ぼしているにもかかわらず、今ではその事実はほとんど忘れ去られている。本書を通じて、まるで現代文明のミッシングリンクを発見したような、驚きと感動を感じることができるのではないかと思う。
◆『サルファ剤、忘れられた奇跡 −世界を変えたナチスの薬と医師ゲルハルト・ドーマクの物語−』
トーマス・ヘイガー 著,小林 力 訳
四六判/360頁/定価2860円(本体2600円+税10%)/2013年3月発行/中央公論新社/ISBN978-4-12-004479-3
http://www.chuko.co.jp/tanko/2013/03/004479.html
「鹿野 司の“読書ノート”」 Copyright(c) 鹿野 司,2013
Shokabo-News No. 288(2013-5)に掲載
【鹿野 司(しかのつかさ)さんのプロフィール】
サイエンスライター.1959年愛知県出身.「SFマガジン」等でコラムを連載中.主著に『サはサイエンスのサ』(早川書房),『巨大ロボット誕生』(秀和システム),『教養』(小松左京・高千穂遙と共著,徳間書店)などがある.ブログ「くねくね科学探検日記」
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