第8回 放射線の不安に対する、わかりやすく客観性の保たれた回答集
『専門家が答える 暮らしの放射線Q&A』
(日本保健物理学会「暮らしの放射線Q&A活動委員会」著、朝日出版社)
東日本大震災以来、私は「理性」や「物の道理」について、考えることが多くなった。
自分ではそれほど意識はしていなかったのだが、人は究極的にこの部分で共通の認識に立てるだろうと、素朴に信じていたことに気づいたのだ。その思いは今も全く変わってはいないのだが、そこに至るまでの道のりは、とても険しいのだなあと、改めて感じるようになっている。
原発事故によってまき散らされた放射性物質は、世間を不安に陥れた。それによって、道理に合わない流言飛語が拡散されていった。政府や公共機関も、そのデマを明確には否定できず、メディアに至っては、不安拡大に荷担したとさえいえる状況があった。
昨年末、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)は、 「原発周辺地域の住人が被曝した放射線量は非常に低く、識別できるような健康被害が生じることは考えられない」とレポートしている。これは、日本政府が行った、避難や食品規制などの対策が、基本的に非常にうまくいったことの証拠なのだが、そう評価する日本メディアはどれほどあっただろうか。
放射能は、震災以前から日本で、いや、世界でも、現実よりかなり恐ろしいものとされてきている。それは、全世界の人々が、放射性物質をまき散らす核兵器に対して、基本的な嫌悪感を持っているからだろう。その感情は広く共有されているので、世間でいわれるようには恐ろしくないことを知っている人も、その過剰さをあえて否定はしていない。
311の災害が起き、そこからの復興をしなければならなくなった時、この平和を願う心から設定された過剰な恐怖感は、かえって復興の妨げになるようになった。
主として、広島・長崎の被曝者たちの追跡調査から、放射線の影響は子孫には伝わらないことが証明されている。しかし、以前からの反核運動の感覚のままの人たちは、この科学によって克服できた差別を、蒸し返すようなことをやっている。あるいは、汚染度がきちんと測定されて、安全性に問題ない震災がれきの処理についても、異常な反対が起き、場合によっては地元住人とは全く関係ない人たちが押しかけて、説明会を占拠することさえ起きていた。
311以降、世界は劇的に変わった。
我々は放射能に汚染された世界の当時者となった。だから以前とは頭を切り換え、危険を定量的に見極め、実現可能な対策を粛々と進めていくこと、それに多くの人が協力していくことが、ものの道理だったはずだ。
しかし、以前から人々の心に潜在していた曖昧で過剰な恐れは膨れあがって暴走し、その道理を素直に通すことを赦さなかった。
そんな不安の渦巻く状況の中でも、いくつかの「理性」に基づく行動と情報発信を続けてきた人たちがいた。
その一つが、「日本保健物理学会有志の会」が立ち上げた、「専門家が答える暮らしの放射線Q&A」ウェブサイト(http://radi-info.com/)だ。 ここでは、世間に渦巻く不安の声に対して、わかりやすく、客観性の保たれた冷静な回答が粛々と行われきた。このサイトは、2013年1月末に質問の受け付けを終了したが、本書は1870件の質問から代表的な80件を選び、リンク切れなどの修正や、その後に明らかになった事実などに基づいて改稿し、これからの教科書となることも意識してまとめられた一冊だ。
実際、本書をひもとけば、ふと頭をもたげてくる、放射線に関する不安を伴った疑問のほとんどに対して、理解しやすい説明が用意されている。今から将来にかけて、放射線について正しく理解し、自らの判断力を養いたいと思う人々が、しっかりとした基本を身につけるのに最適の本だと思う。
こういう本が出版されるということが、やはり人は、理性によってわかり合えるはずだということを証明してくれたようで、私自身勇気づけられた本でもあった。
◆『専門家が答える 暮らしの放射線Q&A』
日本保健物理学会「暮らしの放射線Q&A活動委員会」著
A5判/416頁/定価3080円(本体2800円+税10%)/2013年7月発行/朝日出版社/ISBN978-4-255-00727-4
http://www.asahipress.com/bookdetail_norm/9784255007274/
「鹿野 司の“読書ノート”」 Copyright(c) 鹿野 司,2013
Shokabo-News No. 290(2013-7)に掲載
【鹿野 司(しかのつかさ)さんのプロフィール】
サイエンスライター.1959年愛知県出身.「SFマガジン」等でコラムを連載中.主著に『サはサイエンスのサ』(早川書房),『巨大ロボット誕生』(秀和システム),『教養』(小松左京・高千穂遙と共著,徳間書店)などがある.ブログ「くねくね科学探検日記」
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