雑誌「生物の科学 遺伝」 2000年12月号
特集・バイカル湖の生物
特集にあたって
三好教夫
1987年の初夏に,私は新潟からハバロフスクへ飛び,そこからシベリア鉄道に乗って,ストックホルムの花粉学研究所まで長い旅をしたことがある.その途中で車窓から夕日に映えるバイカル湖の湖畔を眺めたあとイルクーツクに下車して一泊し,翌日バイカル湖の水が外へ流れ出ている唯一の流出河川・アンガラ川の付け根にあるリストビアンカへ観光に出かけた.そのときは,世界最深・最古の湖を一度そばまで行って自分の目で見ておきたかった程度で,まさかそれから8年後にバイカル湖の花粉分析を行うことになろうとは,夢にも思っていなかった.その夢が現実のものになったのは,1991年にバイカル国際生態学センター(BICER)協議会が設立され,自然科学の宝庫バイカル湖地域が世界の科学者たちに開放されるようになったためである.
バイカル湖は,ユーラシア大陸のアジア側,中央シベリア南東部のモンゴルとの国境に近いタイガ(亜寒帯性針葉樹林)の中にあり,世界で最古(約3000万年前に誕生)・最深(1643 m)・最大容積(230×104 km3,世界の湖沼水の20 %)をもち,最大透明度が今も40 mをこえる清澄な淡水湖である.その湖の形は弓形で,日本の本州のような形をしており,現地の人々のあいだでは「神様がバイカル湖を創るとき,掘った土で日本を造ったためその形が似ていて,日本とバイカル湖は古い兄弟である」という伝説もある.また,バイカル湖はユーラシア大陸を二つに分ける地球の裂け目バイカルリフト(地溝)系の中心に位置し,3000万年の歴史をもちながら今もなお毎年幅が2 cm,深さが6 mmずつ増えている「若い湖」である1).この湖底には深度が7000 mにも及ぶ堆積物があり,その湖泥中には化石花粉・化石珪藻・古地磁気など,さまざまな情報が保存されており,まさに新生代の陸域におけるタイムカプセルである.これらの情報を取り出すため「バイカル湖の湖底泥を用いる長期環境変動の解析に関する国際共同研究」を目指す日本の研究グループが,ロシア・米国などとの協力により1995年から1999年の5年間にわたり調査・研究をしてきた.この間に中央湖盆では,厳寒で湖面が凍結している冬期にBDP96:200 mのコアとBDP98:600 mのコアが採取された2).その試料は細かく分割されて,多数の研究機関でさまざまな視点からの解析が進められている.ここに紹介する特集の中でもBDP96試料から第四紀200万年間の「花粉分析からみた植生変遷」が取りあげられている.しかし,この特集は,生物の宝庫バイカル湖の湖内に生息する動物と,その周辺地域に生育する植物についての紹介が中心である.
バイカル湖には,捕食連鎖の頂点に立つバイカルアザラシをはじめ,多数のカジカ類,数百種類のヨコエビ類,多様に分化したマキガイ類とウズムシ類などが生息していることから,「進化の博物館」といわれている.その動物相は,原生動物から動物まで365属1334種もいて,そのうちの約60 %が固有種である.本特集では,このような多様な動物群の中から「湖に閉じこめられたバイカルアザラシの生活と環境」,「カジカ類の系統進化と適応放散」,「ヨコエビ類の系統と進化」の3分野を取りあげて紹介する1).バイカル湖をとりまく盆地を覆う森林は、常緑針葉樹林からなる暗いタイガと,落葉針葉樹林からなる明るいタイガからなる.その東岸域の湖畔から山地にかけては,広大な低層湿原や高層湿原が多数分布していている.ここでは,これら東岸域の「タイガの植生」と「湿原植物」を取りあげる.
この特集では,バイカル湖のすがた・フィールドサイエンスのおもしろさ・生物科学の魅力だけでなく,バイカルアザラシが警告を発する,地球規模で広がる環境汚染の厳しい現状にも注目していただきたい.本研究は,科学技術庁の科学振興調整費の支援を受けて実施されたものであることを記し,深謝する.
文 献
1)森野 浩・宮崎信之 編:バイカル湖.東京大学出版会(1994).
2)井上源喜・柏谷健二・箕浦幸治 編著:地球環境変動の科学.古今書院(1998).
(みよしのりお,岡山理科大学 総合情報学部)
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