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富士川游 著 『日本醫學史』 [初版 明治37年]今回紹介するのは、日本医学史上に燦然と輝く大著『日本醫學史』です。 『日本醫學史』は、有史以前から明治時代まで、日本の医学の発達と変遷を詳細かつ系統的にまとめたもので、以下に記した全10章構成です。 第一章 太古の医学著者の富士川游(ふじかわゆう)は、慶應元年(1865)5月11日(旧暦)、広島県安佐郡に生まれました。明治20年(1887)に広島医学校(現在の広島大学医学部)を卒業後、上京して明治生命保険の保険医となる一方、中外医事新報社で編集に従事。翌年には雑誌『中外医事新報』の編集主任として雑誌を主宰したほか、『普通衛生雑誌』『医談』などの医学関係の雑誌を次々と創刊しました(生涯にわたって富士川が創刊に関与した雑誌は十数誌に及びます)。
この頃から富士川は、急速に進歩する医学の基礎となる“医道”の確立のため、日本の医学史の重要性を認識して、自ら取り組み始めました。保険医として全国各地をまわる中、各地の先達・先哲の墓や墓碑の発見に努め、また名家の後裔を尋ねて種々の資料を入手、そして和漢医書や江戸時代における西洋医学の翻訳書を精力的に収集しました。 明治31年(1898)に西洋医学を学ぶためドイツに留学し、翌年イエーナ大学で学位を取得して帰国。この留学の前後に『日本外科史』『日本眼科略史』などの医学史に関する書籍を著した後に、明治37年(1904)、37歳の時に満を持して発表したのが『日本醫學史』です。
『日本醫學史』の特徴は、何といっても膨大な資料を元に、各時代における医学の歴史を(平安期以降は内科、外科、婦人科、児科などの別に)体系的にまとめていることでしょう。 ページをめくりながら大いに感じたことは、富士川が、(当時の)医学全般の知識は言うに及ばず、偽書と“真書”の古文書を見分ける鑑識眼、また過去の時代の政治や経済、文化に関する広範な知識、そして(概して理系の人が苦手とする)古文・漢文に対する相当な素養など、すべてをあわせもった“偉人”であったということです。
また「データーベース」の無い時代に、膨大な資料を収集し、それを整然と順序よく分類して体系づける作業は、並大抵ではなかったと思います。 雑誌『学燈』に掲載された当時の書評によれば、元の原稿で3000ページ以上あったものを印刷の関係で(本文を)1000ページ強にまとめ直したといいます。当時は活字によって版面を組んでいましたので、1200ページを越える書籍の製作は、出版社にとっても相当な“難事業”であったと思われます。 多数の読者より好評[*2]をもって迎えられた本書は、明治45年5月、第2回の帝国学士院(日本学士院)恩賜賞を受賞しました[*3]。
『日本醫學史』編纂のために富士川が収集した膨大な資料のうち約6000点(1万5000冊)は、富士川自身によって京都大学附属図書館に寄贈され、富士川文庫[*4]として一般に公開されています。
本書は初版刊行後、8版(刷)まで刊行されたようですが、大正12年の関東大震災によって印刷の元となる紙型が焼失し、裳華房版は絶版となりました。
富士川は、『日本醫學史』を上呈した明治37年の前後に、数多くの学会・研究会の創立に尽力しています。芸備医学会(後の広島医学会)、日本児童研究会、日本内科学会、医科器機研究会、癌研究会、看護学会などなど。医学史のみならず、現代医学の勃興期に多大な役割を果たしたといえるでしょう。 [脚注]
*1 日本医史学会
◆『日本醫學史』 ※本稿を執筆するにあたり、「日本醫史學雑誌」第37巻1号(富士川游博士没後五十年特集号)、『富士川游先生を偲んで』(安佐医師会発行)、富士川英郎著『富士川游』(小澤書店)、富士川先生刊行会編『伝記叢書27 富士川有先生』(大空社)等を参考にさせていただきました。ありがとうございました。 ☆記述の誤りなど,お気づきの点がありましたら m-list@shokabo.co.jp まで御連絡ください. ※「裳華房の“古書”探訪」は,裳華房のメールマガジン「Shokabo-News」にて連載しています.Webサイトにはメールマガジン配信の約1か月後に掲載します.是非メールマガジンにご登録ください. |
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