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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

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第1回 コレラ、脚気、水俣病――疫学を巡る視点

『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(津田敏秀 著,岩波書店)

 「日本は疫学が遅れているので…」という話を聴いたのは2008年のこと。新型インフルエンザのについて取材している時だった。疫学(えきがく)といってぴんと来る人はさほど多くないだろうが、統計を駆使して集団に対する疾病や健康被害などを研究する学問だ。集団発生した未知の病は感染症なのかそうではないのか、いったいどこからどういう経路で社会に入り込んできたのか、それ以上の蔓延を防ぐにはどうしたらいいのか――そういったことが疫学の担当分野となる。

 疫学は、19世紀ロンドンで一人の開業医によって始まった。医師の名はジョン・スノー(1813〜1858)という。
 スノーがロンドンで活動していた時期、コレラは原因も分からず突然襲ってきて命を奪う災厄だった。ロンドンでは1831年、1848年とコレラの流行が起きた。開業医だったスノーは治療に奔走するうちに奇妙なことに気がついた。一家まとめてコレラに感染することは少なく、家族の一人がいきなり発症することが多いのだ。それだけではなく、従業員が水の代わりにビールを飲むことが認められていたビール工場は感染者をほとんど出さなかった。
 この時代、コレラは“瘴気”のような悪い空気が原因で感染すると考えられていた。しかし、空気感染なら一家全員が発症したり、工場で集団発生したりするはずだ。彼は、コレラは空気感染するのではなく、なにか汚染された水を飲むことで感染が拡がるのではないかと推定した。
 1853年、またもコレラの流行がロンドンを襲った。スノーは自説を証明しようとして調査を始めた。いつ、どこで誰が発病したか、発症者はどんな生活をしていたかを調べ、地図に書き込んでいく。1854年、ロンドンのブロード・ストリートという一角の調査結果が一枚の地図にまとまった。地図は街の中心部にある井戸から感染が拡がったことを示唆していた。スノーは井戸の水を汲み上げる手押しポンプの取っ手を取り外し、使用できなくした。すると感染拡大は収まったのである。
 感染症がなぜ起きるのかは分からなくとも、感染症を巡る社会状況を調べていくことで感染の源を見付けることができるし、それ以上の蔓延を阻止することもできる――スノーの業績は認められ、やがて疫学という学問分野に発展していった。現在、スノーが発見した感染源の井戸のあった場所には記念碑が建立されており、その横では「ジョン・スノー・パブ」が開店している。パブでは毎年1回、スノーの業績を称えるパーティが開催され、世界中の保健衛生関係者が集まってくるそうだ。
 疫学の特徴は、そのプラグマティックさにある。感染症の原因は分からなくてもいい、感染拡大を防げればいいのだ。それは、あるいはイギリス人のプラグマティックな思考様式に由来するものなのかも知れない。

 スノーは1858年にこの世を去ったが、コレラとの戦いは続いた。1862年、ルイ・パスツール(1822〜1895)が“白鳥の首フラスコ”を使って腐敗が微生物によって起きる現象であることを示した。1876年、ロベルト・コッホ(1843〜1910)が炭疽菌の純粋培養に成功し、一部の疾病の病原体が微生物であることを発見した。
 19世紀、コレラは6回の世界的大流行を引き起こした。1881年、5回目となるコレラの世界的大流行が始まった。コッホは流行が続くエジプトに赴いて研究を重ね、1883年に原因となる細菌を突き止めた。コッホにとって、コレラ菌の同定と培養成功は巨大な成功体験となり、その後コッホとその弟子達は「まず原因と突き止める」という研究の道筋をひた走ることとなった。
 1885年、コッホの元に東洋の小国だった日本から一人の留学生がやってきた。優秀で粘り強い性格の留学生は留学中に破傷風菌の純粋培養に成功し、破傷風菌の毒素を使って血清中に抗体を作成する血清療法をも開発した。彼の名は北里柴三郎(1853〜1931)。北里は1892年に帰国し、やがて日本の医学・細菌学の大立者として影響力を発揮するようになっていく。北里の門下からは、赤痢菌を発見した志賀潔(1871〜1957)のように、「原因を突き止める」研究で世界的業績を挙げる者も現れた。

 日本における初期の疫学的の成果は、陸軍と海軍の対立という形になって現れた。脚気(かっけ)という病気は、江戸から明治にかけて日本の国民病といえるほど蔓延していた。神経障害で脚が動かなくなり、ついには心臓が止まって死に至ることもある。
 海軍の軍医であった高木兼寛(1849〜1920)は、大規模な実地調査で脚気が何らかの栄養不良であることを見抜いた。彼はタンパク質の不足が脚気の原因だと考え、1885年に海軍の食事に麦飯を導入して脚気を激減させた。高木は脚気の原因については間違ったが、調査で得た栄養不良という知見は正しかった。脚気はビタミンB1欠乏症だったのだ。ビタミンB1を鈴木梅太郎(1874〜1943)が発見するのは1912年のことである。その27年前に、高木は麦飯によって脚気の蔓延を防いだのであった。高木は後世「日本疫学の父」と呼ばれることになる。
 ところが、陸軍では軍医の森林太郎(1862〜1922)が脚気は伝染病であると主張して、高木の麦飯導入を「根拠がない」として拒絶した。結果、陸軍は日露戦争では3万人もの兵士が戦闘ではなく脚気によって病死するという事態を招いてしまった。
 実地調査を重んじて、原因については間違えたものの効果的な対策を打つことができた高木と、根拠を求めるあまりに対策に失敗した森。2人の態度はそのまま、プラグマティックなイギリスと徹底的に原因を追究するドイツという、思考様式の違いにつながっている。というのも、高木は当時の医学界では珍しく、イギリスへの留学経験があった。対する森はドイツに留学している。森は当時の医学界の主流であり、高木は傍流であったといえるだろう。高木と森は脚気の原因を巡って激しく議論したが、当時の医学界は森を擁護する意見が非常に強く、高木は沈黙を余儀なくされた。兵士が麦飯を嫌がったので、海軍の脚気対策もやがて後退を始める。脚気の原因がビタミンB1の欠乏という認識が一般化するのは昭和も10年に近くなってからで、日本社会全体における抜本的な対策はビタミン剤が普及する太平洋戦争後にまで持ち越されることとなった。
 このような歴史的事情が、冒頭の「日本は疫学が遅れているので…」という発言につながっていく。日本の医学はコッホ、そしてドイツ流の「まず原因をつきとめる」という流儀が主流となり、ジョン・スノーに始まる「原因はともあれ、実態を正確に把握して被害の拡大を食い止める」というプラグマティックな精神の導入がずっと遅れたのだ。
 ちなみに、森は現在、医師としてではなく、そのペンネームで歴史に名前を残している。森鴎外、明治の文豪その人である。

 津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』は、水俣病の経緯を通じて疫学的思考の欠如が社会的に大きな被害を生む可能性を訴えた本だ。全体は三部構成で、第一部で疫学という学問の概説、第二部では疫学の視点から水俣病の分析、第三部は日本的な制度を疫学の視点からどう見直していくかという流れとなっている。
 衝撃的な本と言わねばならないだろう。なにしろ著者は「疫学の視点があれば水俣病は防げた」と主張しているのだ。しかもその主張には説得力がある。患者が発生した時点ですでに、多くの人が「水俣湾の魚が原因ではないか」と考えていた。だから、その時点で疫学的調査を行っていれば、水俣病の原因は分からなくても水俣湾で獲れた魚介類を食べることが発症の条件であることは、きっちり科学的に証明できたはずだった。そう、疫学的には水俣病は食中毒だったのだ。とすれば、食品衛生法に従って食中毒事件として水俣湾で獲れた魚介類を食べることを禁止すれば、それ以上の発症は防げたというのである。
 が、実際には、行政は「すべての水俣湾が魚介類が有毒化しているという証拠がない」として食品衛生法の適用を見送ってしまった。そして、医学界の対応は「水俣病の原因追究」に傾いた。1969年に原因企業であるチッソを被告とした裁判が始まると、チッソは「発症時点では原因が不明であった以上、チッソの責任は問えない」と主張。それに沿う形で原因究明の経緯を証言する医学者が相次いだ。
 著者はそこに、意図的に国やチッソに有利な証言をすることで研究費などで有利な立場を得ようとする“御用学者”のふるまいを見る。が、同時に本書を読み進めるにつれて顕わになるのは、コッホ流の原因を徹底追求する手法にとらわれすぎて、「原因が分からねば対策はできない」という誤謬にはまりこんでしまった研究者の姿だ。著者はさまざまな公害事件で同様の悲劇が繰り返されたことを論証していく。日本は疫学後進国であったが故に、公害被害を拡大させてしまったのである。

 2011年3月11日の東日本大震災で、福島第一原子力発電所から、大量の放射性物質が拡散してしまった。薄く広く拡がった放射性物質による健康への影響の実態把握には、長期かつ大規模な疫学的調査が必須だ。一時期大きな話題になった高病原性鳥インフルエンザも、消えたわけではなく今なおエジプト、インドネシア、ベトナムなどで人への感染が続いている。インフルエンザ対策に疫学が大きな役割を果たすことは言うまでもない。今ほど疫学的思考が必要になっている時代は、かつてなかったと言いうるだろう。

 なお、日本疫学会が発足したのは1991年。つまり日本の疫学研究者達による組織的な相互情報交換や社会への働きかけが始まってから、まだ20年少々しか経っていない。

【今回ご紹介した書籍】 
津田敏秀 著『医学者は公害事件で何をしてきたのか
   四六判/256頁/2004年6月発行/岩波書店(版元品切れ中)

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2012
Shokabo-News No. 274(2012-4-26)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.日経BP社記者を経てフリーに.現在,PC Onlineに「人と技術と情報の界面を探る」を連載中.主著に『われらの有人宇宙船』(裳華房),『増補 スペースシャトルの落日』(ちくま文庫),『恐るべき旅路』(朝日新聞出版),『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ)などがある.ブログ「松浦晋也のL/D


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