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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第3回 1960年の民間宇宙開発

『ピアース自伝』(ピアース 著,日経サイエンス社)

 2012年5月25日、米宇宙ベンチャーのスペースX社が開発した、「ドラゴン」貨物輸送船が、国際宇宙ステーション(ISS)に初めてドッキングした。ドラゴンは5月31日にISSから分離し、大気圏に再突入して無事に着水に成功した。このような民間宇宙船がISSにドッキングするのはこれが初めてだった。
 ドラゴンはNASA(アメリカ航空宇宙局)からの補助金を受けてスペースX社が開発した。開発の主体はスペースX社であり、設計も製造も全責任はスペースX社にある。
 アメリカは現在、地球周辺の宇宙空間については、有人宇宙活動も含めて民間がサービスを提供できるような基盤を作ろうとしている。NASAは、無人貨物船開発への補助金計画COTS(Commercial Orbital Transportation Services)と、有人宇宙船開発への補助金計画C3PO(Commercial Crew and Cargo Program。余談だが旧計画名はCCDev:Commercial Crew Developmentといった。明らかにスターウォーズを意識した命名だろう)を動かしており、ドラゴンはCOTSの資金提供を受けて開発された。もう一機種、オービタル・サイエンス社(OSC)の「アンタレス」貨物輸送船もCOTSの資金によって開発中で、こちらは2012年中に最初の打ち上げを行う予定になっている。
 C3POは、第1ラウンド、第2ラウンドとステップを踏んで補助金の額を増やしつつ応募者をふるい落としていくというラウンド制を採用しており、最新の第3ラウンドでは、スペースX(4億4000万ドル)、ボーイング(4億6000万ドル)、防衛系電子機器メーカーのシエラネバダ・コーポレーション(2億1250万ドル)の3社が補助金を獲得した。単独メーカーに億ドル規模の補助金をぽんと出す、それも3社に対して同時に――というのは日本では考えられない大盤振る舞いの産業政策だが、それでもNASAがイニシアチブをとって有人宇宙船を開発するよりもトータルでは安く付くと見積もられているわけである。
 今のところ莫大な補助金というひもはついているものの、宇宙に行くのに国が莫大な資金を投入する時代から、自動車のように民間が自らの意志で宇宙船を開発し、商業サービスを実施していく時代へ――徐々にではあるが歴史はその方向に動いているようだ。

 ところで宇宙開発黎明期の1960年代初頭、アメリカでは民間による自発的な宇宙開発の芽生えが存在した。最初期の通信衛星の開発を主導したのは、国家ではなくAT&Tという私企業だったのである。
 アメリカ電信電話(AT&T)は1877年に電話の発明者であるグラハム・ベルが起こした会社だ。アメリカ国内で電話関連機器から電話サービスまでにいたるすべての事業を独占する巨大企業であり、同時にベル研究所(後のAT&Tベル研)では先進的な技術開発を行う革新的な技術志向メーカーでもあった。トランジスタ、レーザー光線、UNIXオペレーティングシステム、C言語など、ベル研発の革新的技術は数多い。
 「ピアース自伝」は、そのベル研で初期の通信衛星開発を指揮した技術者、ジョン・ロビンソン・ピアース(1910〜2002)の自伝だ。彼は第二次世界大戦中、ベル研で真空管の開発に携わっていたが、大戦終結後にアメリカがナチス・ドイツから接収したV2号ミサイルを打ち上げたことから、通信衛星の実現を本気で考え始めた。赤道上空3万6000kmの静止軌道が通信衛星にとって好適であることを初めて指摘したのは、SF作家のアーサー・C・クラークだったが、ピアースもまたJ・J・カップリングというペンネームでSF小説を発表する兼業作家だった。彼は、クラークとは独立に静止軌道の概念にたどり着いてもいる。柔軟な思考の持ち主だったのだ。
 ベル研の技術者という地位を利用して、彼は通信衛星の実現を訴えるが、世間はなかなか相手にしなかった。そこに1957年10月4日、ソ連によるスプートニク1号打ち上げという一大イベントが起きる。この時のショックをピアースは「推理作家が帰宅したら居間に死体が倒れていた」と回想している。
 通信衛星の実現が、アメリカにとって緊急の課題として浮上したが、そもそもそれまで存在したことのない通信衛星という機器がどんなものであるべきかというコンセプトを持っている者はピアース他ほんの少ししかいなかった。彼の出番である。AT&T上層部や政府への働きかけから、技術的課題の解決まで、ピアースは通信衛星に関するありとあらゆる分野に顔を出し、実現に向けて精力的に動いた。
 最初の衛星「エコー1」(1960年8月12日打ち上げ)は、直径30.5mの風船だった。表面にはアルミが蒸着してあってマイクロ波を反射する。ジェット推進研究所(JPL)のプロジェクトとして実施されたが、技術的裏付けは、ピアースが1950年代初頭に自分のSF小説のために行った反射電波強度の計算にそのルーツがあった。
 エコーからの電波受信用にピアースは、衛星追尾可能な巨大なホーン型アンテナを開発した。なお、アーノ・ペンジアス(1933〜)とロバート・W・ウィルソン(1936〜)は1964年に、このアンテナの雑音を減らす研究を行っている最中に、ビッグバンの確たる証拠である宇宙背景輻射を発見している。
 エコーは、ただ電波を反射するだけだったが、次の「テルスター」は違った。受信した電波信号を増幅し、また別の周波数で地上に送り返す、トランスポンダーという機器を搭載したのだ。テルスターこそはすべての通信衛星のルーツだった。
 1962年7月10日、ソー・デルタロケットで「テルスター1号」が打ち上げられた。重量80kgのほぼ球形。軌道傾斜角44.8°、近地点高度952km、遠地点高度5654kmの軌道に投入され、アメリカとフランスの間でテレビ中継を実現した。連続中継可能時間は、衛星が上空にいる20分間だけだったが、世界初の衛星テレビ中継だった。中継に使われた画像は、ニューヨークの自由の女神とパリのエッフェル塔だった。
 世界初の本格的通信衛星だったテルスター1号は、当時世界に大きなインパクトを与えた。スプートニク1号が、頭上に拡がる宇宙という存在を人々に知らしめたとすれば、テルスターは、宇宙技術で生活がより便利になるということを宇宙中継という形で示した。The Tornadosというバンドは、その名も「Telstar」という曲をリリースした。エレキ系楽器を多用した明るく律動的な曲で、「スペースサウンド」「スペースロック」などと呼ばれた。この曲はアメリカとイギリスでヒットチャートの1位を獲得し、ベンチャーズをはじめとした様々なバンドがカバーするほどだった。
 が、そういった社会的影響にもまして注目すべきは、テルスターがAT&Tという企業の宇宙計画であったということである。確かにAT&Tは、巨大な独占企業ではあった。また、テルスター実現にあたっては、アメリカ、イギリス、フランスの三国が技術開発のための多国間協定を結んでいる。が、衛星開発のコストを支払ったのも衛星の所有権を持ったのも、国家ではない一企業のAT&Tだった。世界初の本格的通信衛星を打ち上げて運用したのは、国家ではなく民間企業だったのである。
 歴史にIfはないというが、もしもテルスター計画が順調に継続していたならば、宇宙空間への民間企業の進出は20年以上早く進んだかも知れない。テルスター打ち上げはNASAが請け負ったが、AT&Tは打ち上げ費用として350万ドルをNASAに支払っている。ひょっとすると1960年代に、民間の衛星を民間のロケットが打ち上げる世界があり得たのかも知れない。
 しかし実際にはそうはならなかった。それどころか1962年7月10日の打ち上げ時点において、AT&Tの事業としてのテルスター計画はすでに死に体状態になっていた。
 1961年5月、大統領就任直後のジョン・F・ケネディ大統領は国家主導の国際衛星通信組織を設立するという政策を発表した。新設する組織は民間組織であるが国際衛星通信を独占的に実施するとしていた。後のインテルサットである。アメリカとソ連が冷戦という名の刃を交えない戦争を戦っていた当時、民間企業が野放図に国際通信サービスを提供することは好ましくないと判断されたのである。
 テルスター打ち上げから3週間後の8月1日、米議会で「1962年通信衛星法」が可決された。同法に従って、インテルサットのアメリカ代表となるCOMSAT社が政府出資によって設立され、これをもってAT&Tとピアースの宇宙への挑戦は終わった。テルスター1号は故障により1963年2月21日に運用を終了し、同年5月7日にはより大型(重量176kg)の「テルスター2号」が打ち上げられた。しかし、テルスター2号はAT&Tにとって、うまくいかなかった事業の残務整理だった。よほどくやしかったのか、ピアースはこのあたりの経緯を「私が実際に衛星に関係した日をたどってみると、1957年10月4日のスプートニクの打ち上げから、1962年8月1日の通信衛星法の議会通過まででした。」(本書41ページ)とのみ記述している。
 国際衛星通信が民間に開放されるのは、20年以上を経てレーガン政権が大規模な規制緩和を実施した後のことである。

 さて、その後のピアースはといえば、1970年にベル研を退職。ジェット推進研究所の主任技術者やスタンフォード大学の研究員などを歴任し、のびのびと研究生活を楽しんで生きた。スタンフォードでは、コンピューターを使って音楽の分析を行うCCRMAという組織に所属し、その研究成果は「音楽の科学」(邦訳は日経サイエンス社)にまとめられている。彼にとって一世一代の大勝負であったテルスターはビジネスの果実を結ばなかったが、世界初の本格的通信衛星という栄誉を得た。興味の赴くままに最先端を駆け抜けて92歳の天寿をう した、幸福な人生だったといえるだろう。

【今回ご紹介した書籍】 
情報・通信工学のパイオニア ピアース自伝 −技術者として生きた50年
   ジョン・R・ピアース 著/猪瀬 博・ 井上 如 訳/B6変形判/221頁/
   1988年4月発行/ISBN978-4-532-06269-9/日経サイエンス社 (版元品切れ中)

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2012
Shokabo-News No. 278(2012-9-3)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.日経BP社記者を経てフリーに.現在,PC Onlineに「人と技術と情報の界面を探る」を連載中.主著に『われらの有人宇宙船』(裳華房),『増補 スペースシャトルの落日』(ちくま文庫),『恐るべき旅路』(朝日新聞出版),『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ)などがある.ブログ「松浦晋也のL/D


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