第4回 頑固提督による原子力技術のターニングポイント
『暗黒水域 知られざる原潜NR-1』 (ヴィボニー&デイヴィス 著,文藝春秋)
本連載第2回の最後で、原子炉開発の歴史には2人のキーパーソンが登場すると書いた。一人はアメリカ海軍で原子力潜水艦と原子力空母の開発に執念を燃やしたハイマン・リッコーヴァー(1900〜1986)、もうひとりは原子力工学の研究者で、アメリカの原子炉研究の中枢であるオークリッジ国立研究所の所長を長年勤めたアルヴィン・ワインバーグ(1915〜2006)。海軍のリッコーヴァーの求めに応じて、ワインバーグが船舶動力用に提案したのが、現在原子力発電所で大々的に使われている加圧水型(PWR)という原子炉型式である。
今回は、この一方の人物、リッコーヴァーの話だ。調べるほどに面白いというか、困った人というか、ともあれリッコーヴァーがいなければ、世界の原子力利用は現在とはよほど違ったものになっていただろう。
リッコーヴァーはロシア系ユダヤ人で、1905年に両親と共にアメリカに移住している。おそらくは本人は優秀だったが、十分な学資を準備できる家庭ではなかったということなのであろう、海軍兵学校に進学。アメリカ海軍の機関科士官として、駆逐艦や戦艦、掃海艇などに勤務。その傍らコロンビア大学で電気工学の理学修士を取得している。勤務の過程で彼は潜水艦に興味を持ち、海軍潜水艦学校を経て、潜水艦乗りとなった。1929年から33年にかけて、米海軍S級潜水艦「S-9」と「S-48」に勤務。共に第一次世界大戦終了直後に就役したロートル潜水艦で、運航中のトラブルも多かった。そこでリッコーヴァーは徹底したトラブル対策をとって高く評価された。
このあたりから、彼の生涯を特徴付ける粘着気質と完璧主義、さらには完璧を他人に要求する高圧的かつ強圧的な対人関係が目立ってくる。自分だけではなく、他人にも完璧を求め、結果が得られないと地位を利用して叱りつけ、怒鳴り上げ、時には脅迫的な発言もためらわない。当然部下からは恐れられるものの敬愛されることもないから、閉鎖された人間関係の艦艇の長には不適格だ。結局彼は船を下り、軍官僚としての道を歩むことになった。
第二次世界大戦中は電子部品調達を担当し、持ち前の完璧主義と納入業者を恫喝するテクニックとで、不良品率を激減させた。1942年に大佐に昇進。米軍の日本本土侵攻作戦の物資調達を担当することになったところで日本が降伏して戦争が終結した。
物資調達で成果を上げた人望のない45歳の技術系大佐――佐官から将官へは、昇進に大きなハードルが存在する。年齢的にはそろそろ早期退職が目の前にちらつく時期だ。戦争で華々しい戦歴を持つ同僚が多い中で、リッコーヴァーの未来への展望は地味なものだった。早期退職してどこかのメーカーに再就職するか、定年まで大佐で勤め上げて年金暮らしに入るか。ところが翌1946年、状況は一変するのである。
1946年、米海軍は原子力をエネルギー源として軍事に適用できるかを研究するために、マンハッタン計画で設立されたクリントン研究所(現オークリッジ国立研究所)に技術士官を派遣することにした。リッコーヴァーはこれに志願し、原子力エネルギーが海軍力を大きく増強する可能性に気がついた。
それまでの潜水艦は、ディーゼルエンジンを動力としていた。ディーゼルエンジンで発電機を回してバッテリーに蓄電し、潜航中はバッテリー駆動のモーターを使用する。バッテリーが尽きれば浮上して充電しなくてはならない。しかし、原子力を動力とする潜水艦を建造すればいつまでも潜航し続けることができるではないか。それは敵に位置を知られることなく海中を移動し、必要とするタイミングで敵を攻撃することができるということだ――この考えに取り憑かれたリッコーヴァーは、持ち前の粘りで原子力潜水艦の開発に邁進した。人望のない彼は海軍艦船局で孤立するかに思われたが、思わぬ味方が現れた。第二次世界大戦、太平洋戦線で艦隊を指揮した“海軍の英雄”チェスター・W・ニミッツ(1885〜1960)が彼の考えを支持したのだ。この時期ニミッツは海軍における制服組の最高位である海軍作戦部長を務めていた。
ニミッツの支持を得て、1948年1月には艦船局に核動力部が新設され、リッコーヴァーが責任者となった。この動きに対して、米政府で原子力政策を統括するアメリカ原子力委員会は懐疑的かつ冷淡だった。この時期、アメリカが本格運用していた大型原子炉は、マンハッタン計画で核兵器用プルトニウムを生産するためにワシントン州リッチランドのハンフォード・サイトに建設した「ハンフォード炉」だけだった(1944年稼働の「ハンフォードB炉」に始まり、1963年稼働の「ハンフォードN炉」まで、9基が建設された)。燃料は天然ウラン、黒鉛で中性子減速を行い、軽水で冷却する原子炉である。艦船に搭載できるほど小型で安全性の高い、実用的な原子炉の開発には長期間かかるであろうというのが、原子力委員会の判断だった。
実際、リッコーヴァーが、これほどまでに粘着気質かつ完璧主義で、誰彼構わず脅し上げて働かせるテクニックに長けていなければ、船舶用原子炉の開発はずっと遅れていただろう。その後、民間用原子力船は実用化に失敗したことから考えると、「原子力動力は高コストで艦船には不向き」ということになって、軍用であっても原子力艦船が実用化することはなかったかも知れない。しかし、働く場を得たリッコーヴァーはすべての障害をはね飛ばし、原子力潜水艦の開発に向けて突進した。1949年にはアメリカ原子力委員会も彼の主張を認め、委員会内に海軍反応炉部を新設し、責任者にリッコーヴァーを任命した。
原子力艦艇の軍事的可能性に気がつき、実現を推進したことでリッコーヴァーは1952年に少将に昇進した。それだけではなく、彼は海軍における神聖にして犯すべきではない聖域となっていった。海軍における彼の職分は原子力艦艇開発の責任者(海軍艦船局動力部長)だったが、同時に彼はアメリカ原子力委員会の海軍原子力艦艇開発の責任者(アメリカ原子力委員会海軍反応炉部長)でもあった。監督される者が監督する側でもあったわけだ。時には原子力委員会の責任者として海軍に対して自分の言い分を通し、時には海軍の責任者として原子力委員会の方針に異を唱え――二つの立場を巧妙に使い分けて、彼はますます原子力動力の開発を加速していった。
リッコーヴァーの監督の下、2隻の潜水艦が建造された。ワインバーグが提案したPWRを搭載した原子力潜水艦「ノーチラス(SSN-571)」、そして液体ナトリウムを減速材とする溶融金属冷却型原子炉を搭載した「シーウルフ(SSN-575)」だ。成功の見込みが読めない新規技術だったので、方式の異なる原子炉2種類を同時に開発したのである。シーウルフに搭載した溶融金属冷却型原子炉は取り扱いが難しく、トラブルも多かった。が、ノーチラスの動力となったPWRは成功した。1954年9月30日に就役したノーチラスは1955年1月17日、史上初の原子力動力のみを使った航行に成功した。 1958年8月には、太平洋からグリーンランドへと潜航状態での北極海横断を実施、8月3日には北極点通過に成功した。
ノーチラスの成功により、米海軍は原子力潜水艦艦隊の建造に着手、さらには原子力空母の建造へと進んだ。その過程で、船舶用に考案されたPWRは陸上の発電用に転用された。1958年にはアメリカ初の原子力発電所であるシッピングポート原子力発電所が稼働を開始した。実はシッピングポートの原子炉は、原子力空母用原子炉のプロトタイプも兼ねており、リッコーヴァーは、アメリカ原子力委員会の責任者としてシッピングポート原発の建設を指揮した。
PWRの考案者であるワインバーグは、PWRは船舶向けではあるが大型発電所向けには最適ではないと主張したが、船舶用原子炉の開発を急ぐリッコーヴァーは聞く耳を持たなかった。これは全世界の運命の分かれ目とも言うべき判断だった。あくまでPWRの開発を進めたリッコーヴァーがいたために、全世界の原発の大多数がPWRとなったのである。それは、PWRが発電用に最適だからではなく、粘着気質のリッコーヴァーが海軍原子力艦艇の開発に突進した結果だった。
さて、今回紹介する『暗黒水域』の主役である原子力潜水艦NR-1だ。1963年4月10日、米海軍原子力潜水艦「スレッシャー」(SSN-593)が沈没し、乗組員129名が死亡する大事故が発生した。この事故を契機に、深海からの人命救助が真剣に検討されることになり、世界各国で深海救難艇(DSRV)の開発が始まった。が、リッコーヴァーはスレッシャーの事故を予算獲得の好機と受け取った。通常の潜水艦より遙かに深い深海で長期間行動する特殊作戦用の原子力潜水艦――ここでもリッコーヴァーはありとあらゆる手練手管を使って予算を獲得し、この特異な潜水艦の建造を進めた。相次ぐ計画遅延と予算超過をものともせず、リッコーヴァーはNR-1に予算を注ぎ込み続けた。
直径3.8m、全長45m、排水量409トンと小型で、艦底には海底を這って移動するためのタイヤが装備されている。艦の前部には海底を直接見るための強力なサーチライトと窓があり、装備したマニピュレーターアームで外部の物体を拾い上げることもできる。最大潜航深度は、今もなお秘密だ。
NR-1は1969年10月27日に就役した。表向きの用途は「探査、物体回収、地質調査、海洋学的調査、海底設備設置とメンテナンス」となっているが、冷戦時のアメリカが諜報用途でNR-1を重宝したことはすぐに分かるだろう。ソ連原潜監視用の海底ソナーの敷設、海底ケーブルへの盗聴用タッピング、沈没ソ連原潜の調査と回収、事故により海底に没した西側最新兵器の回収などなど。原著が2003年刊行なので、すべてが描かれているわけではないが、本書にはNR-1が冷戦下で実施した作戦の一部が記述されてる。1986年には、空中爆発事故を起こしてフロリダ沖の海中に没したスペースシャトル「チャレンジャー」の残骸捜索にも出動している。
同時に特筆すべきは「海洋学的調査」だ。NR-1には何人もの海洋地質学者(当然、アメリカ国籍を持つ者に限定されていたのだろう)が搭乗し、NR-1にしか出来ない長期かつ広範囲な海底の地質調査を行った。
米海軍には功績があった者の定年を延長する制度がある。リッコーヴァーは、おそらくは根回しと恫喝とを使い分けてこの制度を自分に適用し、定年後も海軍原子力関連の重鎮として勤務し続けた。その海軍勤務は64年の長きに及んだ。1981年、81歳の老害と化した彼に引導を渡したのは、ジョン・レーマン海軍長官(この時38歳)とロナルド・レーガン米大統領(同70歳)だった。
その日、ホワイトハウスの大統領執務室で、リッコーヴァーは声の限りに大統領を罵倒した。
「大統領、この小便たれ(松浦注:レーマン長官のこと)には海軍のことなど何ひとつ分かっておらん!」(本書p.318)
「君は、それでも男かね」と彼はアメリカ大統領を面罵した。「自分ではなにひとつ決められんのか」そして自分を高齢というなら大統領も似たようなものではないかとうそぶき、こうつけくわえた。「世間では、君は耄碌しておる、この仕事はもうつとまらんと言っておるな」(本書p.319)
レーマンもレーガンも老人に対して穏やかな態度を崩さなかったが、一歩も引かなかった。1982年1月31日、82歳の誕生日直後にリッコーヴァーは失意のうちに海軍を去った。米海軍は、ロサンゼルス級原子力潜水艦の22番艦を「ハイマン・G・リッコーヴァー」と命名し、彼の功績を称えた。
それが彼の心に届いたかどうか。リッコーヴァーは1986年に86歳でこの世を去った。
通常、原子力潜水艦の耐用年数は30年といわれる。しかしNR-1は就役から30年を超えてもなお現役であり続けた。他に代わりとなる艦艇が存在しなかったからだ。何度も後継艦建造の計画は浮かび上がったものの、実現することはなかった。ひょっとするとリッコーヴァーのような狷介さなくして、このような特殊な艦船の開発はできないのかも知れない。周囲の“常識”が、開発の芽を潰してしまうのだ。NR-1は40年使われ続け、2009年11月21日に退役した。
今、本書を読み直すと、特に科学探査の分野におけるNR-1の実績が心に沁みる。NR-1のような長期間潜航可能で運動性に優れた深海探査艇があれば、東日本大震災を起こした海底断層の詳細調査が可能かも知れない。今、もっともNR-1を必要とするのは、東日本大震災後の日本なのではないか。
ちなみに、現在日本は大深度有人潜水調査船「しんかい6500」を保有しているが、1990年の就役以来すでに22年が過ぎている。後継の有人調査船は今のところ構想も存在しない。
【今回ご紹介した書籍】
『暗黒水域 −知られざる原潜NR-1−』
リー・ヴィボニー&ドン・デイヴィス著/三宅真理訳/四六判/336頁/
定価2619円(本体2381円+税10%)/2004年1月発行/ISBN9784163656205/
文藝春秋 (版元品切れ中)
「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2012
Shokabo-News No. 280(2012-10)に掲載
【松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.日経BP社記者を経てフリーに.現在,PC Onlineに「人と技術と情報の界面を探る」を連載中.主著に『われらの有人宇宙船』(裳華房),『増補 スペースシャトルの落日』(ちくま文庫),『恐るべき旅路』(朝日新聞出版),『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ)などがある.ブログ「松浦晋也のL/D」
※「松浦晋也の“読書ノート”」は,裳華房のメールマガジン「Shokabo-News」にて隔月(偶数月予定)に連載しています.Webサイトにはメールマガジン配信の約1か月後に掲載します.是非メールマガジンにご登録ください.
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