第7回 分かった気になる数学ノンフィクション
『素数に憑かれた人たち −リーマン予想への挑戦−』(ダービシャー著,日経BP社)
日本の出版の世界では、フィクションがノンフィクションよりも圧倒的に強い。部数は出るし、発行点数も多い。しかも“少数派”のノンフィクションでは、なにか事物を解説するものよりも、通称“人もの”と呼ばれる、ある特定人物ないし集団に焦点を当てたものや、当事者が自らの体験を語ったものが多数を占める。
このあたりの事情は大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作リストを見るとかなりはっきり現れている。2004年から2013年までの10年間の受賞作17作を分類すると、特定人物を主題とした作品が7作、ある事物に関連する複数の人々を主題とした作品が6作、自分の体験に基づく作品3作、社会や歴史の分析が1作となっている(複数の傾向を持つ作品は、私の独断でどれか一つのカテゴリーに分類した)。
この10年、科学技術ノンフィクションと分類しうる作品は受賞していない。科学関連の受賞作品は、1999年受賞の阿部寿美代『ゆりかごの死−乳幼児突然死症候群(SIDS)−』(新潮社)まで遡らねばならない。
ところが、これが欧米となると、科学や技術、つまり「人だけではなくもの」を主題としたノンフィクションがぐっと増える。科学技術史関連から最新の動向に至るまで、その分野の専門家から専業ライターに至るまでぶ厚い執筆陣が存在していて、「人とものとの絡まり合い」を通じて読者の知的好奇心を満たす書籍を年々生産している。
日本の場合、科学技術情報への欲求は、専門家が執筆する新書によって満たされている。その中からは、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)[*1]、村山斉『宇宙は何でできているのか』(幻冬舎新書)[*2]のようなベストセラーも生まれている。日本の読書の傾向として、科学技術に関しては新書形態の本で手早く情報を身につけたいというニーズがあるようだ。「ねっとりとした人間関係はそれに特化した主題のノンフィクションで楽しみ、科学技術情報は手早く新書で読む」といったところだろうか。
そんな日本で、もっとも層が薄いノンフィクションの分野は、おそらくは数学ノンフィクションだ。海外では、重要な予想が証明されたり、なにか大きな前進があると、必ず関連ノンフィクションが出版される。そんな数学ノンフィクションは、テーマが抽象的なだけに、同時に証明に取り組む数学者の人生をも活写したものになる。最近では、世紀を超えた難問とされてきたポアンカレ予想がグレゴリー・ペレリマン(1966〜)によって証明され、ジョージ・G・スピーロ『ポアンカレ予想』(早川書房)[*3]、ドナル・オシア『ポアンカレ予想を解いた数学者』(日経BP社)[*4]、マーシャ・ガッセン『完全なる証明』(文藝春秋)[*5]などが世に出た。一方、日本ではどうかというと、NHKの番組の書籍化[*6]があっただけだった。ポアンカレ予想でとにもかくにも番組を作ったNHKはさすがだが、内容的にはポアンカレ予想の本当に表面をなぞるところのみで留まっていた。
ところで、数学の世界には、「ミレニアム問題」という、未だ証明できない7つの難問が存在する。正確にはポアンカレ予想が証明されたので、現在は6つの難問だ。2000年にアメリカのクレイ数学研究所が7問を選定し、その解決にそれぞれ 100万ドルの賞金をかけた。かつてドイツの数学者ダフィット・ヒルベルト(1862〜1943)は、1900年に20世紀の数学を前進させるであろう23の問題を選定して発表し、それらの研究は豊かな実りをもたらした。懸賞金というのはなかなかにアメリカ的な手法と思えるが、「ミレニアム問題」はヒルベルトの故事に習ったものといえるだろう。
ちなみにクレイ数学研究所は、ランドン・クレイという数学を趣味とする実業家が私財を投じて設立した非営利組織であり、それ自体ノンフィクションの主題にしたいぐらい面白いのだが、それはさておき…。「ミレニアム問題」の6つの難問は以下の通りだ。
1)P≠NP予想
2)ホッジ予想
3)リーマン予想
4)ヤン-ミルズ方程式と質量ギャップ問題
5)ナビエ-ストークス方程式の解の存在と滑らかさ
6)バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想(BSD予想)
「知らない」「興味がない」から、「聞いたことある」「習った」「講談社のブルーバックスで読んだ」、さらには「なぜゴールドバッハ予想が入っていない」「ヒルベルトの第16問題は21世紀に持ち越したのではなかったか」といったマニアックな反応まで、思うところは色々あろう。
これら選りすぐりの難問の中で、もっとも歴史が古く、歴代屈強の数学者の挑戦をはねつけてきたのが、リーマン予想である。
1859年、ドイツの数学者ベルンハルト・リーマンはゼータ関数と呼ばれる無限級数について、次のような予想を提案した。
ゼータ関数の自明でない零点は、全て実部が 1/2 の直線上に存在する。
これだけ読むと、なぜこんなものに 150年以上も数多の数学者が挑戦してきたか、理解できないだろう。が、ゼータ関数というものが、そもそも18世紀の大数学者レオンハルト・オイラー(1707〜1783)が、素数について研究する中で見出したものであり、リーマン予想が成立するということは実数全体における素数の分布の謎が解けるということであるとなると、これはただことではないと、なんとなく思えるかも知れない。
しかも、リーマン予想は単に素数にのみ関係しているのではない。現代数学の世界は数の概念を拡張し、様々な数学的実体を扱うに至っているが、その全般について「素なるもの」が定義できると、その延長線上に「ゼータ関数的なもの」が定義できる。すると、それら「ゼータなるもの」に対して、やはり「リーマン予想と同等の予想」を設定することができるのである。どうやら、リーマン予想は数学の世界において非常に普遍的なものであるようなのだ。それだけではなく、純粋に数学的に考案されたはずのリーマン予想からは、原子核物理学との関係を示唆するような類似も導き出されている。つまり「世界とは、すなわち数」であり、その根幹にはリーマン予想がどっかりと存在しているのかも知れないのである。
……と、煽ると、俄然リーマン予想に興味を持つ方もおられるかも知れない。解説書を読みたいと思う人もいるだろう。が、日本人の手による書籍は、そのほとんどが本職の数学者によるそれなりに専門的なものだ。あなたが理工系の素養があり、たまに雑誌「数学セミナー」を買ったことがあるレベルなら大丈夫。それらの本を読んでみよう。しかし、「私、数学は指数、対数と三角関数が出て来たところで諦めました」だったならどうしよう。
NHKは、2009年にNHKスペシャル「魔性の難問〜リーマン予想・天才たちの闘い〜」というドキュメンタリーを製作・放映している[*7]。これは、映像の力をぎりぎりまで駆使してリーマン予想を解説した力作で、ずいぶんと頑張っている (DVDになっていて、現在も入手可能[*8])のだが、それでも視聴後の感想は「なんとなく、分かったような」というところに留まる。ちなみに、ナッシュ均衡で知られるジョン・ナッシュ(1928〜)が統合失調症を患ったことや、アラン・チューリング(1912〜1954)の死をリーマン予想に結びつけるのは無理というものだろう。NHK、感動で盛り上げようとしてやり過ぎ!
「“分かったような”、ではなく、せめて“分かった気分”ぐらいにはなりたい!」と思うなら、それはもう翻訳ものの数学ノンフィクションの出番だ。実は私もまた「分かった気分になりたい」と思って、リーマン予想に関する数学ノンフィクションをかなり読んだのだが、その中でももっとも「分かった気分にさせてくれた一冊」が、今回紹介する『素数に憑かれた人たち』だ。
『素数に憑かれた人たち』の特徴は、数式から逃げないことだ。一般向けに平易にと考えると、いかに数式を使わずに説明するかというところに力を注ぐことが多い。が、『素数に憑かれた人たち』は情け容赦なく数式を登場させる。その一方で、登場させる数式は徹底的に説明する。それこそ四則演算で数学は諦めましたという人にも理解できるまで、手を変え品を変え、説明していくのだ。
本書最初のハイライトは、 136頁に始まるオイラーが見出した等式の証明だろう。ゼータ関数は自然数に関する無限の項の和だ。これが、素数に関する無限の項の積と等しいという等式である。著者はこの等式を、四則演算だけで証明してみせる。
オイラーが見つけた等式は、自然数と素数とが密接に関係していることを示している。これを理解するということは、素数と自然数の関連を実感することでもある。これこそは、リーマン予想理解の糸口であり、本書では「黄金の鍵」と呼んでいる。「黄金の鍵」を突破口として、本書はリーマン予想の意味、そしてリーマンが行おうとしていたことを、とにもかくにも最後まで解説してみせる。
辟易するほど懇切丁寧な数式の説明を緩和するのが、数学者達のエピソードである。オイラー、フリードリヒ・ガウス(1777〜1855)、リーマン、ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(1877〜1947)、ジョン・リトルウッド(1885〜1977)、ジョージ・ポリア(1887〜1985)、アトル・セルバーグ(1917〜2007)などなど。「まあ、難儀な人達が難儀な問題に挑んできたものだ」と実感させてくれる。
ところで、冒頭に「日本の出版の世界では、フィクションがノンフィクションよりも圧倒的に強い」と書いた。実は日本では、数学小説と呼びうる作品がぽつぽつ書かれている。遠藤寛子『算法少女』(岩崎書店、1973年)あたりが嚆矢であろうか。石原藤夫『宇宙船オロモルフ号の冒険』(1982年、早川書房)は純粋数学ではなく、工学で使う応用数学を主題にした異色作だった。最近では、結城浩『数学ガール』(ソフトバンククリエイティブ、2007年)[*9]というヒット作も出た。『数学ガール』はシリーズ化され、現在第5作まで刊行されている。
では、リーマン予想を主題とした小説は、といえばこれがあるのだ。川端裕人『算数宇宙の冒険』(実業之日本社、2009年)[*10] である。これがなかなか甘酸っぱくも良質なジュブナイル小説で、東京郊外、桃山町という架空の街を舞台に、小学生たちがリーマン予想に基づく数学ファンタジー世界の冒険に巻き込まれていく。夏休み、転校生、夏祭りといった懐かしさを感じさせる題材を、リーマン予想と組み合わせることで宇宙的な拡がりをもつ冒険譚に仕上げた傑作である。
【本文中で紹介した書籍・番組等の紹介サイト(版元品切れ等を除く)】
*1 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1498916
*2 村山 斉『宇宙は何でできているのか』(幻冬舎新書)
http://www.gentosha.co.jp/book/b5027.html
*3 ジョージ・G・スピーロ『ポアンカレ予想』(ハヤカワ文庫NF)
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/90373.html
*4 ドナル・オシア『ポアンカレ予想を解いた数学者』(日経BP社)
https://shop.nikkeibp.co.jp/front/commodity/0000/P83220/
*5 マーシャ・ガッセン『完全なる証明』(文春文庫)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167651817
*6 春日真人『100年の難問はなぜ解けたのか』(新潮文庫)
http://www.shinchosha.co.jp/book/135166/
*7 NHKスペシャル「魔性の難問」
http://www.nhk.or.jp/special/onair/091115.html
*8 DVD「リーマン予想・天才たちの150年の闘い」(NHKエンタープライズ)
http://www.nhk-ep.com/shop/commodity_param/ctc/+/shc/0/cmc/14625AA/
*9 結城浩『数学ガール』(ソフトバンククリエイティブ)
http://www.sbcr.jp/products/4797341379.html
*10 川端裕人『算数宇宙の冒険』(実業之日本社文庫)
http://www.j-n.co.jp/books/?goods_code=978-4-408-55065-7
【今回ご紹介した書籍】
『素数に憑かれた人たち −リーマン予想への挑戦−』
ジョン・ダービシャー 著,松浦俊輔 訳/
四六判/482頁/定価2860円(本体2600円+税10%)/2004年8月発行/日経BP社/
ISBN978-4-8222-8204-2
https://shop.nikkeibp.co.jp/front/commodity/0000/P82040/
「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2013
Shokabo-News No. 287(2013-4)に掲載
【松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.日経BP社記者を経てフリーに.現在,PC Onlineに「人と技術と情報の界面を探る」を連載中.主著に『われらの有人宇宙船』(裳華房),『増補 スペースシャトルの落日』(ちくま文庫),『恐るべき旅路』(朝日新聞出版),『コダワリ人のおもちゃ箱』(エクスナレッジ),『のりもの進化論』(太田出版)などがある.ブログ「松浦晋也のL/D」
※「松浦晋也の“読書ノート”」は,裳華房のメールマガジン「Shokabo-News」にて隔月(偶数月予定)に連載しています.Webサイトにはメールマガジン配信の約1か月後に掲載します.是非メールマガジンにご登録ください.
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