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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第14回 民間航空草創期の若き息吹と、皮肉なる運命

『空気の階段を登れ』(平木國夫 著,三樹書房)

 吉田聡は間違いなく短編マンガの名手だ。その吉田に『バードマン・ラリー鳥人伝説』(同名の短編集所載、少年サンデーコミックス)という、田舎町の2人の幼なじみを主人公とした短編がある。高校生になった2人は、ひとりは暴走族の頭に収まり、もうひとりは独力で人力飛行機を作り続ける変人となり、やがて1人の女生徒を巡って対決することになる。青春の恥ずかしい感傷がどっさり詰まっていて、それでいて泣かせる話なのだが、クライマックスでは一方がこつこつと作り続けた人力飛行機が大きな役割を果たす。

 ところでご存知だろうか。日本に飛行機というものが入ってきたごく最初の頃、明治の末から昭和の初めにかけて、飛行機を巡る本物の熱い青春物語があったことを。能力の限りを尽くして、知恵も時間も財産も一切合切を注ぎ込んで、自分で飛行機を作り、自分で飛ぼうとした一群の人々がいたことを。もちろん国策なんてものは一切関係ない。海外からのニュースで「人間は飛べる」と分かった途端、「俺も飛びたい」と思ってしまったのである。
 今回紹介する『空気の階段を登れ』は、そんなパイオニアたちを、その中のひとり伊藤音次郎(1891〜1971)を主人公に描いた小説である。1970年に読売新聞社から出版され、その後講談社文庫にも入ったが、長らく絶版が続き、幻の書と化していた。
 それが2003年の航空100年がきっかけとなって、 2006年に三樹書房から復刊された。現在は新装版(2010年刊)を新品で入手することができる。著者の平木國夫(1924〜1912)は事業免許を持つパイロットとしての仕事の傍ら、日本の航空先駆者を調べて小説化してきた作家。他に『バロン滋野の生涯』(文藝春秋)、『飛行家をめざした女性たち』(新人物往来社)、『イカロスたちの夜明け』(グリーンアロー出版社)といった著書がある。
 著者は、執筆にあたって最晩年の伊藤に長時間のインタビューを行い、かつ几帳面な性格の伊藤が欠かさずつけていた日記の提供を受けた。このため本書は小説でありつつも史書としての側面も持っている。が、その内容には史実とは異なるいくらかの創作が混じっていることも判明している。そこは小説と思って読んでいくべきだろう。活写されているのは、事実関係というよりも、パイオニアたちの血のたぎりなのである。

 物語は明治43年(1910年)12月、故郷の大阪から上京した19歳の伊藤音次郎が、日野熊蔵、徳川好敏による日本初の飛行機の飛行を一目見ようと代々木練兵場に通うところから始まる。ライト兄弟の初飛行から6年目のこの年、日本陸軍は日野と徳川を航空技術習得のために欧州に派遣した。それぞれグラーデ単葉機とファルマン複葉機を購入して帰国した2人は、年も押し詰まった12月19日に代々木練兵場(現代々木公園)で日本の空を初めて飛んだ。
 ――ということになっているが、実は18日の滑走練習の際に日野が60mほど宙を浮いており、こちらを初飛行とする説もある。裏では、初飛行の栄誉を巡って、旧将軍家の血を引く名家の徳川と、偏屈で自尊心の強い日野、さらには“初の称号は華族の徳川に”という軍の思惑、徳川の出身母体の陸軍気球隊と日野の出身母体の歩兵科との確執など、いろいろ生臭い話があったようなのだが、それはさておいて。
 この時すでに民間には、飛行機を買ってくるのではなく、自分で作ろうとする一枚上手の変り者がいた。奈良原男爵家の跡継ぎ息子の、奈良原三次(1877〜1944)である。海軍の技師として気球を研究していた奈良原は「サイエンティフィック・アメリカン」誌に掲載された飛行機の記事に刺激され、1909年頃から私財を投じて、最初の飛行機「奈良原式一号機」を製作し始めた。
 奈良原の試みは、世間の耳目を集めた。万朝報の記事で奈良原の試みを知った伊藤は、奈良原に手紙を出し、やがて華族の奈良原と一介の平民の伊藤との間で文通が始まった。奈良原式一号機は1910年10月に東京・新宿の戸山が原で飛行試験を実施した。これが飛んでいたら、日本初の飛行という栄誉は私財を投じた変人の上に輝くところだったのだが、大きな問題が起きていた。欧州に50馬力のエンジンを注文したのに、手違いがあって届いたのは25馬力のエンジンだったのだ。結局一号機は馬力不足で飛行することができなかった。このニュースを聞いてたまらなくなった伊藤は上京。奈良原に会う算段がつくまで知人の所に寄留している間に、代々木練兵場における日野と徳川の飛行に立ち会うことになったのだった。
 再度エンジンを発注した奈良原は、翌年5月5日、開設間もない所沢陸軍飛行場(現所沢航空記念公園)で奈良原式二号機による日本初の国産飛行機の飛行を成功させる。やがて伊藤も奈良原に合流し、「自分で作った飛行機を自分が操縦して飛ぶ」という夢の実現に向かって進んでいくことになる。

 草創期の常として、本書にはアクの強い、それだけに魅力ある人物が次々に登場する。技術一筋で上からのお覚え悪い日野、人格者で日野を気遣いつつどこか憂愁を漂わせる徳川、金に無頓着で鷹揚な放蕩息子の奈良原、奈良原に食い込んで実際の飛行機製作を担当しつつ盛大に奈良原家の金を酒と女に浪費する住吉貞治郎、奈良原の元で命がけのパイロットを務め、やがて“空飛ぶスター”的存在となっていく白戸栄之助、白戸が飛行のたびに壊す機体を神がかった職人技で修理する大口豊吉、東京帝大卒の秀才で後から合流して奈良原式の設計を根本から改革する志賀潔(赤痢菌を発見した志賀潔とは別人である。念のため)――こんな面々に揉まれつつ、伊藤は白戸から操縦を習い、志賀から航空機設計法を吸収していった。

 本書を読んで痛感するのは、明治の日本が持っていた鷹揚さ、自由さだ。社会のユルさといってもいい。
 その自由さは、多分に奈良原が持つ華族という身分と財産とに支えられていたのは間違いない。そもそも制度が整っていない草創期ならではという面もある。
 それでも、東京都心から大して遠くもない戸山で、民間が作った奇妙な機械を飛ばすことができた(この時は飛ばなかったわけだが)というのは、現在の目から見るとうらやましいというしかない。その後の試験飛行の場が、陸軍の開設した所沢飛行場に移るというのもなかなか信じがたい。自衛隊の施設を、民間が使うようなものだからだ。

 メディア・アーティストの八谷和彦さんは2003年からマンガ『風の谷のナウシカ』(宮崎駿、同監督によるアニメ映画版もある)に登場する「メーヴェ」という無尾翼航空機を、そのまま実際に人が機体として製作するプロジェクト「OpenSky」を続けている。 アニメに登場するおよそ飛びそうに思えない航空 機が実際に人を乗せてとぶという事業全体を、アートとして社会に提示しようというプロジェクトだ。このプロジェクトについてはご本人が『ナウシカの飛行具、作ってみた』(八谷和彦・猪谷千香 著、あさりよしとお イラスト。幻冬舎刊、2013年)という本を出して、10年以上に渡る苦労をまとめている。
 2014年現在、ジェットエンジンを装備した機体が、機体ナンバーを取得して低高度飛行試験を行うところまできているが、そのために八谷さんは安全性を証明するための膨大な資料を国土交通省・航空局に提出しなくてはならなかった。プロジェクト開始から11年もかかっている理由のひとつには、実際に自作航空機を飛ばすのに必要となる膨大な事務がある。
 奈良原や伊藤の時代になかった事務が、今はなぜ存在するのか。もちろん安全を確保するためなのだが、すべての機体が旅客輸送用の機体と同等の安全性を確保・確認しなければいけないものなのだろうか。そして、書類を作ることは即安全性の確保につながるのだろうか。むしろ官僚組織のカッコつきの“仕事”と“実績”作りのための言い訳になってはいないだろうか。
 試行錯誤が多いほど、技術革新は高速に進む。試行錯誤を増やすためには、パイオニアを優遇する必要がある。優遇といっても、ちやほやする必要はない。彼らがやりやすい環境を作ればいい。ありていに言えば、あまりうるさいことは言わずに「他の人に迷惑かけるなよ」とだけ言って放置しておけばいい。

 そんな環境が、確かに明治末期から大正にかけての日本には存在した。その証拠に、パイオニアは奈良原と周辺に集まっていただけではなかったのである。
 大阪では、皮革を商っていた森田新造が、商用で渡欧した折に飛行機に触れ、帰国後まったくの素人でありながらいきなり飛行機を作り始めていたのである。素人の森田が作った飛行機は、実は奈良原式二号機に先駆けること11日の1910年4月24日、 大阪城東練兵場(そう、ここでも軍の管轄する練兵場を民間人が使っている)にて初飛行に挑戦し、高度1mで80mほどの飛行に成功した。史家によってはこちらを日本初の国産航空機の飛行としている。ところが森田は、1ヶ月後に滑走試験中の事故でけが人を出し、両親からそれ以上の飛行機の研究を禁止されてしまう。おそらく森田の飛行機も開発資金は富裕な実家が出していて、彼は親に逆らえなかったのだろう。その後彼は、飛行をあきらめ、代わりに模型店を開いて模型飛行機の普及に努めたという。

 さて、八谷和彦さんは、メーヴェのジャンプ飛行までに11年もの時間を費やした。では、一世紀前の伊藤音次郎はどうかというと、より進歩は急速だった。奈良原の機体は奈良原式四号機「鳳号」に至って、やっと安定して飛行できるようになった。伊藤はパイロットに抜擢されてどんどん空を飛ぶようになった。所沢の飛行場は、陸軍の航空部隊が拡充されるにつれて、民間人には使いにくくなっていった。そこで奈良原は飛行の拠点を移すことにした。千葉県・稲毛海岸――幕張メッセの東側、現在は埋め立てられ、京葉線稲毛海岸駅があるあたりは、当時潮が引くと遠浅の大きな砂浜が露出していた。潮が引いた後の砂浜は固く締まり、十分飛行機の滑走路として使用できる。
 かくして稲毛海岸は、日本民間航空のゆりかごとなった。やがて伊藤は、稲毛に伊藤飛行機研究所を設立して自らも飛行機の設計製作を開始する。
 1910年暮れの日野、徳川の初飛行見物から6年目の1916年1月8日には、自ら設計製作した伊藤式恵美号で稲毛から離陸して帝都東京の上空を飛行する帝都訪問飛行を実施。 1917年1月には初の夜間飛行に成功した。パイロット志望、設計者志望の人々も集まってくる。その中には後に小説家として名を成す稲垣足穂(1900〜1977)もいた。 1919年5月には、その稲垣が設計した日本初の曲技飛行専用機「伊藤式第二I羽号」をパイロットの山縣豊太郎が操縦し、国産機初の宙返りに成功。山縣は第二I羽号で二回連続宙返りも成功させた。冬の代々木練兵場から11年目の1921年、30歳の伊藤は伊藤飛行機研究所を株式会社化した。
 ちなみに稲毛海岸の拠点は1916年に台風被害で壊滅し、伊藤は拠点を習志野の鷺沼海岸に移す。稲毛海岸が日本民間航空の拠点だったのは、1912年から16年までの、たった4年半ほどだった。

 その後の伊藤は三つの社会状況に翻弄されることになる。まず何度もやってきた不況、次に最終的に太平洋戦争へと至る一連の戦争。そして、おそらく一番大きかったのが、“ビジネスとしての航空産業”だった。どうやら伊藤は、本質的に“夢見るパイオニア”であり、前に進むことのみが望みだった節がある。一連の伊藤式飛行機は基本的に単品製作であり、量産をしていないのだ。
 大正から昭和へと時代が進むにつれ、陸軍と海軍の航空部隊は拡充され、航空機製造業にとっては軍用機を受注することが重要な課題となっていった。伊藤飛行機研究所とほぼ同時期に中島知久平が群馬県太田に設立した飛行機研究所は、やがて中島飛行機となり軍用機受注で大きく成長していく。その一方で、伊藤は民間航空にこだわり、伊藤飛行機研究所が巨大財閥となることはなかった。
 本書は1930年(昭和5年)、落魄し、貧乏にあえぎつつなおもヘリコプターへの夢を語る奈良原三次に、伊藤が新たに設立する日本軽飛行機クラブという新組織の会長就任を要請するところで終わる。あくまで民間航空が、伊藤の夢のフィールドだったのだ。

 だが時代は残酷だ。1941年、太平洋戦争開戦の年の3月、日本軽飛行機クラブを中心に行われてきた民間パイロットの養成が国の方針で打ち切られる。そのまま年末の12月には真珠湾攻撃で日米の戦争が始まり、日本は破滅のどん底へと滑り落ちていくことになる。

 敗戦後、日本にやってきた進駐軍は航空に関する一切合切を禁止した。すべてを失った伊藤音次郎は、千葉県成田の荒れ地に開拓農民として入植する。
 なんという運命のいたずらか、1966年になってその成田に国際空港を建設する計画が持ち上がる。伊藤が苦労して開拓した土地は、現在B滑走路があるあたりだった。翌1967年、彼は成田の農民としては一番最初に、自分の開拓した土地を売却する。民間航空に前半生をかけた彼にしてみれば、それ以外の選択肢はあり得なかったろう。
 1971年、伊藤は80歳でこの世を去る。が、運命の皮肉はまだまだ続く。成田に入植するにあたって、彼はかつて習志野の伊藤飛行機製作所敷地内に建立した飛行神社という神社の神様を、そのまま持ってきた。その神社、東峰神社は、入植者たちの産土神社として信仰を集めてきたが、なんと激烈を極めた成田空港反対闘争の中で、反対派の象徴となってしまったのである。
 東峰神社は今も成田国際空港B滑走路の南端を遮るように立地している。周囲の土地はすべて成田国際空港株式会社に収容され、かつてのベルリンのように、神社にアクセスするには高い塀で囲われた道を通るしかない。反対派に対する警備は今も続いており、参拝者は職務質問を受けることもあるという。

 この状態をどう考えるべきか。すくなくとも、日本民間航空のパイオニアに対する仕打ちとしては、あまりに敬意に欠ける状況ではないだろうか。空港反対派の意向を無視することは出来ないだろうが、歳月が憎悪を洗い流したならば、東峰神社はもういちど飛行神社として空港ターミナルの、それも一番人通りの多い場所へ遷座すべきだろう。そしてそこには、明治末に「人間って飛べるんだ」「じゃあ飛ぼう!」と思った人々を顕彰する施設が併設されるべきだ。彼らが夢を抱いて行動したからこそ、今の私達は成田から気楽に海外へと飛べるようになったのだから。


【今回ご紹介した書籍】 
空気の階段を登れ −黎明期にはばたいた民間飛行家たち−(新装版)
   平木國夫 著/A5判/588頁/定価4180円(本体3800円+税10%)/
   2010年6月発行/三樹書房/ISBN 978-4-89522-552-6
   http://www.mikipress.com/books/2010/06/post-52.html

ナウシカの飛行具、作ってみた 発想・制作・離陸――メーヴェが飛ぶまでの10年間
   八谷和彦・猪谷千香 著、あさりよしとお イラスト/四六判/198頁
   定価1540円(本体1400円+税10%)/2013年9月発行/幻冬舎/ISBN 978-4-344-02450-2
   https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344024502/
※電子書籍もあります。


「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2014
Shokabo-News No. 301(2014-7)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在,PC Onlineに「人と技術と情報の界面を探る」,日経トレンディネットで「“アレ”って何? 読めばわかる研究所」,日経テクノロジーで「小惑星探査機はやぶさ2の挑戦」を連載中.主著に『われらの有人宇宙船』(裳華房),『飛べ!「はやぶさ」』(学習研究社),『増補 スペースシャトルの落日』(ちくま文庫),『恐るべき旅路』(朝日新聞出版),『のりもの進化論』(太田出版)などがある.ブログ「松浦晋也のL/D


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