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「生物の科学 遺伝」2005年5月号(59巻3号)

特集:「生物多様性」を捉えなおす −人間社会との関係を考える10の視点−

特集にあたって

正木春彦・伊藤元己

 近ごろ「生物多様性」という言葉を頻繁に耳にするようになった.確かに生物の多様性は重要に違いない.自然の多様性は人の生活を豊かにする.アメリカも,その国としての強さは,“人種の坩堝”といわれるような人の多様性に発するともいわれる.しかし,今いわれている「生物多様性」には,もう少し積極的な学問的響きがこめられている.ただ,具体的に何を指すのかわからないし,どの程度よいことなのかもわからない.だが実は,「生物多様性」そのものは新しい言葉だ.それどころか,社会的・政治的な言葉でもあるらしい.

 人間の営みが直接・間接に生物の多様性に深刻な影響を及ぼすことから,1992年に,生物の多様性の保全と生物の持続可能な利用を求めて「生物の多様性に関する条約」が合意された.同年,リオデジャネイロの国連環境開発会議(いわゆる地球サミット)において,この条約と「気候変動に関する国際連合枠組条約」に多くの国が署名し,生物多様性は,地球温暖化・二酸化炭素排出とともに,一気に社会的キーワードとなった.

 さらに,生物多様性条約を通じて問題提起された,遺伝子組換え生物の環境への影響と,バイオテクノロジーの利益還元に関して,2000年に「カルタヘナ議定書」が採択され,2003年にこれが発効して,「生物多様性」は,学問的な意味と同時に,遺伝子組換え技術の法的な規制と国際的な利益配分という,政治・経済的意味を強くもつ言葉になった.
 議定書の発効に伴い,署名国の日本では,2004年にそれを担保するための,いわゆるカルタヘナ関連法が成立して,四半世紀続いた自主規制の基準であった「組換えDNA実験指針」はなくなり,遺伝子組換え実験や遺伝子組換え生物の扱いは,罰則を伴った法律などによって規制されることになった.

 しかし,一連のこの説明には,何となく不自然さも感じられる.生物多様性とはそもそも何だろう? 確かに,多様性はあったほうがよい.しかし,それをどうやって定義し,どうやって測るのだろうか? 人の活動が活発になり,大規模化していけば,その範囲の生物の多様性が失われていくのは当然ではないのだろうか? 人の活動や生活の大規模性,利便性は確保したままで,自然だけ多様性を保全するとは,虫がよすぎるのではないだろうか? それが難しいからこそ,そこを法で規制するのであろう.では,いままで人間の活動とともに拡がった無数の外来生物はどうするのだろうか? 遺伝子組換え生物はオオクチバスみたいなものなのか? そもそも遺伝子組換え植物が,環境中で生物多様性にどのような影響を与えるのかという情報は,まだきわめて限られている.さらに,種類のうえで組換え生物のほとんどを占める微生物に至っては,環境中での追跡すら非常に難しいのが現状である.

  そこで登場したのが予防原則である.情報が限られて将来の予測がつかない場合には,まずできるだけ大きな規制の網をかけようというもので,これは組換えDNA実験が登場して間もなくの,モラトリアムに考え方がきわめて似ている.組換えDNA実験そのものは登場して30年,事故も怪物を生むこともなく,現実的に規制は大幅緩和されてきた.ただし,30年前に議論されたリスクが,人に対する遺伝子組換え体の直接的な危害だったのに対し,今回議論されている遺伝子組換え体のリスクは,生物多様性を侵す可能性が主である.われわれは,この30年の歴史と経験に,結局,何を学ぶのか?

 北海道では今年の3月に,遺伝子組換え作物の栽培規制条例「遺伝子組換え作物の栽培等による交雑等の防止に関する条例」が成立し,その運用に向けた議論が激しく交わされている.いっぽう,生物多様性と遺伝子組換え技術の問題は,グローバルにもみる必要がある.一番責任と影響力の大きなアメリカが議論から降りている点,また先進国に比して,途上国には生物多様性の規制が事実上免責されている面をどうするのだろうか?

 昨今のテレビや新聞では,「生物多様性」が,耳に快い生物学的な響きをはらませながらも,きわめて社会的・政治的文脈で,問題点が整理されないまま報道され,いろいろな人が異なった立場で異なった「生物多様性」を主張しているようにみえる.こういう状態は,科学と社会との間が,一種,非常に不誠実な,危ない関係にあることを意味しているのではないだろうか?

 そこで本特集では,「生物多様性」に異なったかかわり方をしておられる専門家に,それぞれの立場からの「生物多様性」を語っていただき,現代社会における「生物多様性」の意味と問題点,さらには科学と社会のかかわり方を考えてみたい.

(まさき はるひこ,東京大学大学院 農学生命科学研究科;
いとう もとみ,東京大学大学院 総合文化研究科)

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