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【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第25回 貧困には脳の高次機能障害が潜んでいるのか

鈴木大介 著『脳が壊れた』(新潮社)

『脳が壊れた』カバー

  前回のこのコラム(Shokabo-News 2016年7月号)で、星一の『30年後』にある、以下のような文を紹介した。

危険思想をなんか抱く者はようするに脳の一部に病所があるからで脳の一部に病所がある以上は、その人の身体は完全でない。つまり健康に異常があるに相違ないからである。これに的確にきく薬を服(の)まさしむれば、思想が平均してくる。健康が平均してくる。危険な考えを持ちようがなくなってくるというという結論でございましょう。

 脳に問題があるなら、それを薬で治し、薬で治せば思想も穏やかになるという、いささか穏やかならぬ星一のユートピア。前回はこれを批判的に読み解いてみた。だが、「一見正常と見える人の脳に機能障害があり、それ故社会の中で生きづらさを抱える」ということはありうる。
 今回取り上げる『脳が壊れた』は、貧困問題を追究してきたライターが、脳梗塞を患った経験をまとめたもの。幸い命に別状はなく、リハビリも順調に進んだが、高次脳機能障害が残ってしまった。
 そして著者は気が付く。貧困問題の取材で面会してきた貧困者には、問題行動を抱える者が少なくなかった。それを彼は、性格的、人格的問題だと考えていたが、実は貧困という環境の中で、脳が何らかの損傷を受けた結果ではないのか、と。つまり、少なからず高次脳機能障害の結果としての貧困という現象があるのではないかというのである。

 高次脳機能障害というのは、脳梗塞などで脳細胞がダメージを受けることで発生する、手足をはじめとした身体の麻痺とは別の、一群の障害のことだ。脳は様々な機能を担っており、どこにどの程度の損傷を受けるかで様々な障害が起きる。
 例えば記憶障害では、物忘れがひどくなったり、新しいことを覚えられなくなったり、今日の日付や曜日が分からなくなったりする。注意障害では、右か左か片側にあるものだけを認識できなくなったり、集中力がなくなったり、外界への興味を失ったりということが起きる。
 遂行機能障害というものもある。計画的に物事を片付けることができなくなったり、物事の優先順位を付けられなくなったりするのだ。感情障害では、怒りっぽくなったり、突如悲しくなって泣き出したりと、自分で自分の感情をコントロールできなくなる。何かを欲しいという欲求が抑えられなくなり、お金を浪費したり、際限なく食べ続けたりということも起きる。
 体の麻痺などははっきり見えるので、周囲も気を使ったり配慮したり出来るが、高次脳機能障害は周囲から見えにくく、「なんだか性格が変わった」「おかしな行動をするようになった」と認識されてしまう。それが脳の損傷による障害と理解されず、セルフコントロールの弱さ、つまり自己責任と思われてしまいがちなのである。

 本書は、41歳の著者の身体に脳梗塞の予兆が現れるところから始まる。無理に無理を重ねて生きてきて、「そろそろ身体が危ない」という予感はあったが、特に生き方を変えることもしなかった結果、まず手足にしびれが出た。それを放置していると、ある朝ろれつが回らなくなった。本格的な脳梗塞発症だ。
 ここからの脳梗塞発生時の主観的経験の記述と、それに続くリハビリと生活への復帰の記録は、経験を積んだライターらしく自分を客観的に描写していて、言葉は悪いかもしれないが「面白い闘病記」である。私は、脳科学者が自らの脳出血の体験を綴った『奇跡の脳』(ジル・ボルト・テイラー著、新潮社)を思いだした。
 が、それ以上に興味深く、著者ならではの見識が披露されるのは、リハビリで少しずつ能力を取り戻していく中で、自らが患った高次脳機能障害のありようが、かつて取材で会った貧困者の様子と似ていることに気が付くところである。
 これまでの取材の中で、著者は信じられないような貧困に苦しむ人々に多数会ってきた。その中にはどうしても問題行動が直らない人もいた。面会の約束を守れず、必ず大幅に遅刻する人、生活保護の申請書類などの少し込み入った作業の説明を始めるとなぜか寝てしまう人、店舗のレジで小銭を数えることができずに、いつもお札で払っておつりを貰っていた人――それらの行動が、著者の患った高次脳機能障害と似ていたのだ。

トラウマチックな体験や強い精神的ダメージは、目には見えないが脳に傷となって残り、結果として様々な認知のズレを生む。(中略)彼女のそばに、今僕を支えてくれているリハビリ医療があれば、どれだけ強力な支援になっただろう。(中略)彼ら彼女らに必要なのは、いち早く生産の現場に戻そうとする就業支援ではなく、医療的ケアではないのか。それも精神科領域ではなく、僕の受けているようなリハビリテーション医療なのではないのか。
(本書「第4章 リハビリ治療のポテンシャル」中の「彼女たちの事情」より。購読したのが電子書籍版なのでページ数は省略)

 この指摘は大変重要だ。と同時に、現状では一個人の直観であり感想であることにも注意する必要がある。貧困者の脳が高次脳機能障害を起こしているかどうかは、別途定量的な研究が必要だろう。
 しかし、強いストレスや継続的な暴力が脳に悪影響を与えることはすでに証明されているので、十分ありうることではなかろうか。少なくとも真剣に検討するに値する問題提起ではなかろうか。

 「貧乏なのは要領が悪いからだ」「能力がないからだ」「なまけるからだ」と、貧困を自己責任とからめて語る人は多い。しかし貧困の背後に、劣悪な環境が原因の高次脳機能障害があるとすると、貧困の原因を自己責任に求めることはできなくなる。むしろリハビリテーション治療の対象として考える必要が出てくる。
 ここで冒頭の星一著『三十年後』の記述に戻ってみよう。「危険思想をなんか抱く者はようするに脳の一部に病所があるからで脳の一部に病所がある以上は、その人の身体は完全でない。つまり健康に異常があるに相違ないからである。」
 危険思想を、貧困と置き換えれば、そのまま「脳が壊れた」の認識と一致するではないか。「貧困者はようするに脳の一部に病所があるからで脳の一部に病所がある以上は、その人の身体は完全でない。つまり健康に異常があるに相違ないからである。」

 脳の機能回復に効く薬がすぐにできるとは思えない。貧困の底に高次脳機能障害が潜んでいることが明らかになったとしても、しばらくの間はリハビリ治療で対応するしかないだろう。
 が、前回批判的に紹介した星一の考えを、まさかこういう形で肯定的に紹介することになるとは。
 前回と同じフレーズで締めくくるとしよう。星一、恐るべし。


【今回ご紹介した書籍】 
脳が壊れた
  鈴木大介 著/新書判/234頁/価格(本体760円+税)/2016年6月刊行/
  新潮社(新潮選書)/ISBN 978-4-10-610673-6
  http://www.shinchosha.co.jp/book/610673/
  ※電子書籍版もあり


「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2016
Shokabo-News No. 328(2016-9)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在,日経ビジネスで「宇宙開発の新潮流」,日経テクノロジーで「小惑星探査機はやぶさ2の挑戦」を連載中.主著に『われらの有人宇宙船』(裳華房),『飛べ!「はやぶさ」』(学習研究社),『増補 スペースシャトルの落日』(ちくま文庫),『恐るべき旅路』(朝日新聞出版),『のりもの進化論』(太田出版)などがある.Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura


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