第15回 1908年、飛行船と航空機の交錯
ハインケル&トールヴァルト 著『嵐の生涯 航空機設計家ハインケル』(フジ出版社)
2回も休みを頂いてしまい、申し訳ありませんでした。昨年後半は小惑星探査機「はやぶさ2」に関する単行本2冊の執筆に忙殺されていたのです。2冊同時執筆は、私にとって大変きびしい仕事でしたが、無事上梓できました。
『はやぶさ2の真実 どうなる日本の宇宙探査』(講談社現代新書)と、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』(日経BP社)です。前者は、これまでの取材の蓄積に基づいて、日本の太陽系探査の歴史とこれからの展望をまとめ、後者は「はやぶさ2」関係者の生の声を集めたインタビュー集です。後者は主要な内容を日経テクノロジーオンライン[*1]の連載「小惑星探査機はやぶさ2の挑戦」[*2]で読むことができます(要無料登録)。
*1 http://techon.nikkeibp.co.jp/
*2 http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20140416/346761/
さて本題。前回(Shokabo-News 2014年7月号)は、日本民間航空のパイオニアである伊藤音次郎(1891〜1971)を主人公とした小説『空気の階段を登れ』(平木國夫 著,三樹書房)を取り上げた[*3]。
*3 https://www.shokabo.co.jp/column/matsu-14.html
伊藤のようなパイオニアは、世界中にいた。ライト兄弟は、世界初の動力飛行を成功させて、現在の航空機への道を拓いたと評価されているが、実態としては数多くのパイオニアの中の一組ということができる。
伊藤音次郎のように、純粋に飛行の夢を追った人物もいたが、他方では航空機に可能性と同時に巨大なビジネスチャンスを見た者も多かった。両者は画然と分かれていたわけではなく、夢を追って航空機を作り始めた者の中に、ビジネス的才能を持った者もいたというのが、正しい認識だろう。
今回紹介するのは、そんなビジネスの才覚を持ったパイオニア、ドイツのエルンスト・ハインケル(1888〜1958)の自伝だ。原著は1953年に出版されている。
滅法面白い本なのだが、ハインケルとノンフィクション作家のユルゲン・トールヴァルト(1915〜2006)の連名であることから、どうやらハインケルの発言に基づいてトールヴァルトがまとめたものらしい。トールヴァルトは、ドイツでは著名なノンフィクション作家で、外科医学史をたどった『外科の夜明け』(講談社文庫)、『近代外科を開拓した人々(上下)』(講談社文庫)、『大外科医の悲劇』(東京メディカル・センター出版部)などの代表作を持つ。私は本書の面白さのかなりの部分は、トールヴァルトの功績ではないかと判断するが、翻訳者は後書きで両者の役割分担は不明と書いている。
本書は「1888年は、三皇帝の年と呼ばれる。」という文ではじまる。これだけで、読者の心はぐんと19世紀末、国力を伸ばしていたドイツ帝国へと引き込まれる。この年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が90歳の天寿を全うし、息子のフリードリヒ3世が即位した。しかし、フリードリヒ3世は数年前から喉頭ガンを患っており、即位後3か月で死去。帝位はその子のヴィルヘルム2世が継いだ。同じ年の1月、ハインケルは、南ドイツ・グルンバッハのブリキ職人の子として生まれた。
しかし、彼は「私の真の人生はその時始まったのではない。」と続ける。「それが始まったのは、1908年8月5日、シュトゥットガルト郊外エヒターディンゲンの野であった。」ハインケルはシュトゥットガルト工科大学で学ぶ20歳の学生。癇癪持ちでけんかっ早く、大酒飲みの若者だった。
この頃、ドイツではフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵(1838〜1917)が、私財を投じて硬いアルミ合金の骨格を持つ硬式飛行船の開発を進めていた。1908年8月4日、ツェッペリン4番目の飛行船「LZ-4」が24時間連続飛行に挑んだ。ドイツの国会が、ツェッペリン伯爵に対して、24時間飛行が可能ならば飛行船開発に250万マルクを支出するという条件を提示したのだ。 この飛行は大きな話題となった。ところがLZ-4は12時間の飛行の後にエンジン故障で、エヒターディンゲンに不時着。話題の飛行船を見ようと、人々が詰めかけた。8月5日の見物人の中には、ハインケルもいた。
そして事故は起きた。係留されていたLZ-4が強風にあおられ、バランスを崩して墜落したのである。係留索には多くの人々が取り付いて、あばれる飛行船を押さえようとするが、持ち上げられ、やがて力尽きて落下する(気がついた方もいるだろうが、この事故は宮崎駿監督のアニメ映画「魔女の宅急便」クライマックスのモデルだ)。飛行船は落下し、炎上した。そんな阿鼻叫喚の現場を、ツェッペリン伯爵も見ていた。
ほぼ同時に、街道のほうから、甲高い声が響いた。「私はおしまいだ……」
声のした方を向くと、ツェッペリン伯のまっさおな大きな顔が見えた。白い鼻下ひげが唇をかくしている。大きく見開いた目は涙でいっぱいだった。ふるえる両の手をさしのべ、70歳の伯爵は、背の高いダイムラーの無蓋自動車の中に立っていた。(中略)もはや自分の財産は使いつ くしている。なのに、いま彼の眼の前にあるのは、燃えつきた金属の山であった。「私はもうだめだ……」――そう繰り返すツェッペリンのふるえる手から、私は眼を放せなかった。
しかし、そのうち、ツェッペリンの車をとりまく人びとのあいだから、声が起こった。「がんばれ!がんばれ!」と。工員風の男が車に財布を投げこみ、私の右でも左でも、ツェッペリンに新しい飛行船を造らせるために募金をやるんだ、と声が上がった。募金という言葉は列車のところまで――たかまる悲しみをこらえて私がシュトゥットガルトへもどる列車のところまで、ずっと聞こえていた。 (本書p.8)
この事故はツェッペリンの飛行船開発に対して、逆に弾みをつけることとなった。ドイツ全国に広がった「ツェッペリン伯爵を救え」の声により、 650万マルクもの募金が集まったのである。ところが、超満員の列車で帰宅する20歳のハインケルの脳裏には、突如ひらめきが訪れていた。
帰りも列車は超満員で、窓からやっと乗れた。けれども扉に押しつけられながら今の大惨事と新ツェッペリンのための募金のことを聞いているうちに、突如として、私はある認識を得たのだった。(中略)飛行船を水素ガスで飛ばしているやり方では、空飛ぶ夢はかなえられぬと悟ったのだ。このままでは、きょうのエヒターディンゲンのように、余断を許さぬ自然の暴力で挫折してしまうだろう。この夢が実現するものなら、エンジンとプロペラをもつ頑丈な「空気より重い」航空機によってのみ可能なのである。 (本書p.8〜p.9)
私もノンフィクション物書きの端くれだが、この本書冒頭のつかみには本当に恐れ入る。大事故、老人の涙、涙を救う募金のかけ声、しかし、若者の脳裏には老人の方法では駄目だというインスピレーションが宿る――飛行船と航空機の運命が、エヒターディンゲンで交錯したと錯覚するほどの見事さだ。
自分の人生を賭けるだけの価値が航空機にあると確信したハインケルは、自分の飛行機作りに突進する。が、その道は平坦ではなかった。一介の学生だった彼には金がなく、金を貸してくれる人もいない。人の良い機械工の親方、フリードリヒ・ミュンツの後ろ盾を得て借金ができるようになり、作業場も手に入れるが、今度は当時は高価だったエンジンを手に入れるのに四苦八苦する。
1911年7月、ついにハインケルの最初の飛行機は、空へと飛び出した。
いまそのときのことを思いだし、シュトゥットガルトの新聞記事を読んでみると――古手の飛行家ならみんなそうだろうが――自分で自分に感嘆したくなる。さよう、経験もなく、先生もなく、飛行法則も自分の機体の特性も知らずにスタートした無鉄砲ぶりを、だ。観客はわっと走りよってくる。彼らの望むのが飛行の成功か墜落か、そこはわからないのだ。 (本書p.24)
彼の最初の飛行機は安定性を欠いていた。自身の操縦で飛行中、バランスを崩して墜落し、ハインケルは重傷を負う。残ったのは機体の残骸と借金だ。ツェッペリンのLZ-4墜落時と同じ、しかし規模は小さな熱狂がシュトゥットガルトで発生し、いくらかの寄付が寄せられたが、入院費用にも足りなかった。
もちろんハインケルは諦めない。傷が癒え、杖をついて歩けるようになると、彼はベルリン南東のヨハニスタールへと赴いた。当時ヨハニスタールは、ドイツの航空パイオニア達が集う拠点となりつつあった。ドイツ航空史におけるシリコンバレー、あるいは伊藤音次郎にとっての稲毛海岸といった場所である。ヨハニスタールで彼は、当時盛んだった航空機競技用に高性能の機体を設計して注目を集める。ヘッドハンティングが始まり、彼は次々と会社(というが、要は航空機という新しい機械の可能性に賭けたベンチャー企業だ)を渡り歩き、そのたびに給料は高くなっていった。第一次世界大戦が始まると、彼は軍用機をいくつも設計した。その中には、ハンザ・ブランデンブルグW29水上機のような後世に名を残す傑作機も含まれていた。
第一次世界大戦にドイツは負け、航空機の製造は禁止された。ところが、この禁止令には抜け穴があった。ドイツ向けの飛行機製造は禁止になったが、海外向けの航空機製造は禁止されていなかったのだ。抜け穴に気がついたドイツの飛行機野郎共は、第一次世界大戦中に蓄積した高い技術を駆使して、海外向けの航空機を作り始めた。ハインケルも自分の会社を設立し、アメリカ海軍向けの潜水艦搭載用小型偵察機の開発から、航空機の開発と製造を再開した。後のハインケル社である。
ここから彼と彼の会社の快進撃が始まった。どうやらハインケルは、ものになる技術を見いだす見識と、すぐれた設計センスを持つ者を見分ける鑑別眼とを持ち合わせていたようだ。彼のもとには優れた設計者が次々と集まり、エポックメーキングな機体を次々に開発していった。欧州の航空スポーツを席巻したHe-64競技機。空気抵抗を極力減らしたことで当時としては異例の高速性能を誇ったHe-70旅客機。世界初のロケット航空機He-176、さらには世界初のジェット機He-178に、世界初のジェット戦闘機He-280。ナチス・ドイツが政権を奪取し、ドイツ空軍を再建すると、ハインケルの機体は、ライバルのメッサーシュミット社の機体と共に、その中核を担うことになった。
ところが、ナチスとハインケルは折り合いが悪かった。奔放な性格でずばずばと本当のことを口にしてしまうハインケルを、一部のナチス党幹部が嫌ったのである。このあたりは、ちゃっかりとナチス党員となってうまく立ち回ったメッサーシュミット社のウィリー・メッサーシュミット(1898〜1978)と好対照である。本書には、航空機開発メーカー側から見た、ナチス幹部のエピソードが多数収録されている。
この折り合いの悪さ故か、ハインケル社製の航空機は第二次世界大戦を通じて、有効に使用されたとは言い難い機種が多い。「メッサーシュミットとハインケル」と並び称されるにも関わらず(これには当時のナチスが行った宣伝が関係しているとのことだ)、大量に使われたのはHe-111爆撃機ぐらいだ。革新的なHe-176もHe-178も空軍への売り込みに失敗。He-280は先行して飛行していたにも関わらず、メッサーシュミットがMe-262ジェット戦闘機を開発中だったこともあって採用されなかった。高性能を発揮したHe-219夜間戦闘機も、半ば国営企業と化していたユンカース社の妨害にあって少量生産に留まった。
敗色濃厚になった1944年、ナチス・ドイツは生産性が高く、初心者にも操縦できるジェット戦闘機「国民戦闘機(フォルクス・イェーガー)構想」を立ち上げる。ハインケル社はそれに応じてHe-162戦闘機を開発した。開発開始から約1年後の敗戦時に120機が配備、200機が完成、600機が組み立て途中という驚異の速度で開発と製造を進めたが、これがハインケル社最後の輝きとなった。機体自身も高速性能は優れていたが、操縦が難しく、初心者が扱える機体ではなかったという。あまりに開発期間が短く、欠点を修正する時間がなかったのである。
戦後のハインケルは、小型自動車製造などでチャンスを待った。が、やっと航空機事業に戻れるかという1958年に死去。会社は1965年にフォッケウルフ社の後身であるVFW社に吸収合併された。
その後VFWは、1980年にメッサーシュミット社の系譜のメッサーシュミット・ベルコウ・ブローム(MBB)社に吸収合併され、そのMBBも1998年にダイムラー・クライスラーグループに買収されて、ダイムラー・クライスラー・エアロスペース(DASA)となった。DASAは2000年に欧州主要航空企業の大合併によってEADSドイツとなり、EADSは2013年にエアバス・グループと名称を変更している。
ところで、ハインケルとライバルであるメッサーシュミットとの因縁には、ひとりの優秀な技術者が関係している。その名はロベルト・ルッサー(1899〜1969)。当初ハインケル社で働いていた彼は、1933年にメッサーシュミットの会社(当時はバイエルン航空機製造という名称、後のメッサーシュミット社)に転職した。1936年、ドイツ空軍の主力戦闘機を選ぶコンペがあり、ハインケルはHe-112戦闘機を、メッサーシュミットはBf-109戦闘機を開発した。この時は、メッサーシュミットのBf-109が選定され、最終的に第二次世界大戦終結までに3万5000機以上も生産されることとなった。
ところでBf-109の基本設計は、かなりの部分をルッサーが行った形跡がある。というのも、Bf-109からはそれまでのウィリー・メッサーシュミット本人の設計と微妙に考え方が違うのが、感じ取れるからだ。
ハインケルはこの敗北を非常に悔しがり、その後自社資金でBf-109を超える高性能機のHe-100戦闘機を開発する。が、Bf-109を大量配備した空軍が、He-100を採用することはなかった。ハインケルは自社で育てたルッサーに負けたわけである。
その後のルッサーの人生もなかなか数奇なものだ。まず1938年に古巣のハインケル社に戻る。ちなみに、ルッサーが抜けた後のメッサーシュミット社は、Me-210双発戦闘機、Me-309戦闘機と失敗作を連発するようになる。ルッサーのハインケル社復帰の直接のきっかけはメッサーシュミットとの対立だったそうだが、ひょっとするとなにかハインケルが動いたか、という気もしないでもない。
ハインケル社ではHe-280ジェット戦闘機とHe-219夜間戦闘機の設計を担当する。ところがHe-219の設計が「凝り過ぎ」という理由でドイツ空軍省に却下され、この失敗が原因となりルッサーはハインケルの手により解雇されてしまった。あるいはハインケルはBf-109でルッサーに負けたことを、根に持っていたのかもしれない。「嵐の生涯」にはルッサーに関する記述はない。このあたり、もはや本当のことは永遠に分からないであろう。
ハインケル社を追われたルッサーはフィーゼラー社に移り、今度はパルスジェットエンジンを動力とする無人飛行爆弾の開発に従事する。すなわち大戦末期に恐れられたV-1飛行爆弾だ。 さらに戦後はアメリカに渡って、フォン・ブラウンらのロケット開発グループに合流、アポロ計画のための巨大なサターンVロケットの開発に参加した。その過程で信頼性工学を研究し、「製品の信頼性は使用する各部品の信頼性を掛け合わせたものとなる」という「ルッサーの法則」を提唱している。
このルッサーもハインケルに負けず劣らず興味深い人物なのだが、残念ながら自伝は残していないようだ。
【今回ご紹介した書籍】
『嵐の生涯 −飛行機設計家ハインケル−』
エルンスト・ハインケル& ユルゲン・トールヴァルト 著/松谷健二 訳
四六判/374頁/2014年8月発行/フジ出版社/ISBN 978-4-89226-052-0
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「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2015
Shokabo-News No. 307(2015-1)に掲載
【松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在,PC Onlineに「人と技術と情報の界面を探る」,日経トレンディネットで「“アレ”って何? 読めばわかる研究所」,日経テクノロジーで「小惑星探査機はやぶさ2の挑戦」を連載中.主著に『われらの有人宇宙船』(裳華房),『飛べ!「はやぶさ」』(学習研究社),『増補 スペースシャトルの落日』(ちくま文庫),『恐るべき旅路』(朝日新聞出版),『のりもの進化論』(太田出版)などがある.Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura
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