裳華房のtwitterをフォローする


【裳華房】 メールマガジン「Shokabo-News」連載コラム 
松浦晋也の“読書ノート”

禁無断転載 → 裳華房メールマガジン「Shokabo-News」


第53回 裳華房久しぶりのポピュラーサイエンス書のヒット

 『文系でも3時間でわかる 超有機化学入門』(諸藤達也 著、裳華房)

『文系でも3時間でわかる 超有機化学入門』カバー  前回に続いて、岸信介、阿片、里見甫の話を書こうと準備をしていたら、編集Kさんから電話が入った。「売れているんです。重版もかかりました。なんとか拡販したいので、この本を扱ってください」──。
 裳華房はかつて「ポピュラー・サイエンス シリーズ」という一般向け科学解説書を積極的に出版していた。1988年以来、巻数を重ねること287冊。私も『われらの有人宇宙船』(2003年)という本を出版してもらった。
 このシリーズは、今も裳華房ホームページの目録には掲載されている。しかし2009年11月出版の『放射線の遺伝影響』(安田徳一著)を最後に、新著の刊行は止まった。詳しい事情は聞いていないが、ビジネスとして厳しかったのだろうと、容易に想像できるところだ。
 その裳華房が久しぶりに一般向け科学(化学)解説書を出版し、しかも昨年末の発売後すぐに重版がかかるぐらいに好評なのだという。これは推さねばなるまい。

 というわけで、今回は、ドロドロの政治の裏金を離れて、有機化学の本である。著者は有機化学を専攻する学習院大学の助教の方。研究と並行して、「有機化学論文研究所」※1というブログ、さらには「もろぴー有機化学・研究ちゃんねる」※2というYouTubeチャンネルをそれぞれ運営し、一般向けの有機化学知識の普及に注力している。
※1 https://moro-chemistry.org/
※2 https://www.youtube.com/channel/UCVdqfcGIhXFEe4JDV97X1ig

 『文系でも3時間でわかる 超有機化学入門』というタイトルからは、これ一冊を読めば有機化学という大変に広い学問分野をすべて概観できるような印象を受ける。が、本書の内容はそのようなものではない。本書が扱うのは、有機化学の一トピック「2つのベンゼン環を結合する」という化学反応だけなのだ。
 しかし同時に、このタイトルに嘘偽りはないことも強調しておく必要がある。「2つのベンゼン環を結合すること」に対する研究の歴史を知ることで、「有機化学とはどのように思考を巡らせ、どのように実験を行い、新たな知見を積みかさねていく学問か」という、有機化学という学問がもつ方法論を理解することができるからだ。つまり、本書は「有機化学的な思考」を知るための本なのである。

 ベンゼン環──炭素原子が6つ、六角形に環状につながった分子構造だ。6個の炭素がもつ電子は共鳴し、すべての炭素原子核で共有されるので、安定している。それぞれの炭素は1本の「結合の腕」をもつ。一番簡単な分子は、それぞれの炭素原子に水素原子が一つ付いたベンゼン($\rm{C_{6}H_{6}}$)だ。この水素のかわりに、別のベンゼン環をくっつける──これが本書のテーマである「2つのベンゼン環を結合する」ということだ。
 複数のベンゼン環が連なる化合物には様々な可能性がある。無数の六角形が平面に敷き詰められるように繋がるグラフェンという化合物もあるし、あるいはベンゼン環だけではなく、炭素が4つや5つや7つの四員環、五員環、七員環も加われば、その可能性は無限といって良い。しかも、それらの中には、医薬品、液晶、香料など、様々な有用な化合物が多数含まれている。その合成の基礎となるのが、「2つのベンゼン環を結合する」ことだ。が、これがなかなか難しかった。
 ここから本書は、1901年にフリッツ・ウルマン(1875〜1939)が発見したウルマン・カップリングに始まる「2つのベンゼン環をつなぐ化学反応の歴史」を解説していく。ウルマン・カップリングは200℃以上の高温で大量の銅試薬を使用する必要があった。もっと使い勝手の良い、便利な反応はないのか──有機化学者らは研究を重ね、より簡単に、より効率良く2つのベンゼン環をつなぐ反応を発見していく。その営為の中途では何人もの日本人研究者が重要な貢献を行った。研究はウルマンから120年を経た現在も継続している。
 新たな反応を見いだすプロセスが、そのまま「有機化学という学問が展開する思考の技法」の解説になっている、というのが本書の特徴だ。2つのベンゼン環をつなぐというごく限られた話題を取り扱いながら、有機化学がもつ思考──つまりは有機化学の精髄が理解できるという構成になっているわけである。

 もうひとつ、『文系でも3時間でわかる 超有機化学入門』というタイトルの「文系でも3時間でわかる」というところに注目しよう。この部分は「子どもでも分かる」でもいいし「理科大嫌いのまま大人になった人のための」でも構わないだろう。それぐらい、解説の口調は平易で、分かりやすい。
 というのも本書は、化学が苦手な文系の女子高生「理香」と、そんな彼女に化学を教えることになった家庭教師にして、化学専攻大学院生の「勇樹」の2人の会話で構成されている。要所で、化学メーカー研究者の理香の母が登場して、場を引き締める。
 複数人の対話によって知識をわかりやすく語るというのは、ガリレオ・ガリレイ『天文対話』(1632)のサルビアーティ(地動説)、シンプリチオ(天動説)、サグレド(2人の仲介)の3人組以来の伝統的構図だ。人は人に強い興味をもつ習性があるので、知識を伝えるにあたっても素のまま知識を書き下すよりも、キャラクターを介し、「誰それがこう話した」という形態をとったほうが親しみやすくなる。一人を教師役、もう一人を生徒役に割り当てれば、そのまんま教室の講義と同じ形になるし、生徒役を感情移入しやすいキャラクターにしておくと、読みやすくなるという利点もある。
 だいたいの学習マンガはこの形式だ。『まんがサイエンス』(あさりよしとお著、学研プラス)に登場する奇怪な“怪人教師”たちと“あやめちゃん”たち小学生グループの対話を思い出そう。中には『数学ガール』(結城浩著、SBクリエイティブ)のように「数学を解説すると同時に青春小説としても成立している」、あるいは『マンガ 化学式に強くなる──さようなら、「モル」アレルギー』(高松正勝・鈴木みそ著、講談社ブルーバックス)のように「化学解説書としてと同時に、ラブコメマンガとしても読める」という例もある。
 本書は、そこまで凝った物語的構造を仕掛けてはいない。描かれるのは、家庭教師の勇樹、そして生徒の理香の淡々と流れる「お勉強の時間」だ。が、読んでいくと勇樹が「2つのベンゼン環をつなぐ」という化学反応に対する並ならぬ思い入れがあることが分かってくる。凝った物語構造のかわりに、「2つのベンゼン環をつなぐ」ことへの情熱が読者を駆り立てていく。
 ラストで思い入れの理由が明かされる。大学院生の勇樹もまた「2つのベンゼン環をつなぐ反応」の研究をしていたのだ。というわけで、勇樹の書いた「2つのベンゼン環をつなぐ」論文が掲載され、勇樹が「この旅はきっと終わらない。人間の歴史が続く限り続いていくだろう」と宣言して本書は終わる。この論文は著者自身の論文だ。つまり、本書は著者である諸藤氏の情熱の対象を、読者に伝える本だったのである。著者自身が勇樹というキャラクターを通じて「2つのベンゼン環をつなぐ反応」の研究、ひいては有機化学の探究は、途切れることなくと未来へとつながっていく、と宣言しているわけである。

 理科は嫌い、理科は苦手と頭から思い込んでいる子どもの机に、親がそっと置いておくとよい本だと思う。うっかりと読んでしまった子どもが少しでも面白いと思ったらしめたもの、子どもはそこから新たな知識の沃野に足を踏み入れることになるだろう。もちろん、親が読んでも楽しめることは間違いない。

 それにしても著者の一般への化学解説の情熱には驚く。今回ブログを読み、YouTubeチャンネルも視聴したが、本筋の研究の傍ら大変なエネルギーを注ぎ込んでいるのが分かる。
 近年、ネット社会の成熟と共に著者のようなプロフェッショナルが、ネットを使って自分の専門分野の普及啓発活動を行う例が目立ってきた。
 そうなると、私のような「取材をして文章をアウトプットし、人に伝える職業」はどうなるのだろうか。確かに「伝える技術」というものはあるのだが、ここに来てデジタルネイティブの若い研究者を中心に、実に達者に自分の専門分野を解説する研究者も出てきている。
 私は、「科学技術ジャーナリスト」とか「ノンフィクション・ライター」などと名乗って仕事をしている。専門家に取材をして、聞いた内容を一般にも分かりやすい形で文章にする仕事だ。「伝える技術」が仕事の核心である。しかし、著者のように専門家でありつつ伝えることに積極的ならば、「伝える技術」も身につけることができる。そしてネットという、文字情報から音声や動画像までを伝達することのできるメディアはすでに存在しており、便利なツールもよりどりみどりで存在している。
 となると、私のような「伝える人」という職業は、いずれ消えていくものなのだろうか?

 ひとつの職業が終焉を迎えるかも、という予感で思い出すのは、作曲家アルチュール・オネゲル(1892〜1955)の著書『わたしは作曲家である』(原著1952年、邦訳は音楽之友社)だ。二つの世界大戦の狭間で華々しい活躍をしたオネゲルは、第二次世界大戦による欧州の文化的荒廃、そして人類を滅亡させることすら可能になった科学技術にすっかり絶望してしまい、「作曲家など、もはやこの社会にはいらないのだ」と考えるようになった。「没落がわれわれをねらっている、いや、もうつかまえています……われわれの芸術は立ちさっていく……遠ざかっていく。わたしは音楽がいちばんはじめに旅にでていってしまうのじゃないかと心を痛めている。」(音楽之友社版、p.171)。
 現実には、作曲家という職業がなくなることはなかったし、音楽が人間の文化から消えることもなかった。オネゲルの生きた19世紀から20世紀前半にかけての欧州の文化的脈絡は途絶えたかもしれないが、音楽は生き延びた。  だから「ジャーナリストに代表される“伝える職業”も、大丈夫だよ」……とは簡単には言い切れない。作曲家は研究者と同じく、ゼロから価値を生む仕事だ。ところが、ジャーナリストはそうではない。情報を右から左に動かす過程で「わかりやすい」というような付加価値を付ける仕事である。
 これ、生き残れるのか?
 本書を読んだ私は、今、オネゲル並みに悲観的になっている。研究者がここまで書けるのなら、ジャーナリストは要らないのではないか、と。悲観してもしかたないので、「なんとかなるでしょ」と前を向いて歩むしかないのだけれども。


【今回ご紹介した書籍】 

『文系でも3時間でわかる 超有機化学入門 −研究者120年の熱狂−
 諸藤達也 著/四六判/176頁/四色刷(カラー)/定価1870円(税込み)/
 2021年12月刊/裳華房/ISBN 978-4-7853-3519-9
 https://www.shokabo.co.jp/mybooks/ISBN978-4-7853-3519-9.htm

※本書の電子書籍版もあります。
https://www.shokabo.co.jp/mybooks/ISBN978-4-7853-7581-2.htm

※著者の諸藤達也先生が「動画配信による大学有機化学教育の普及」の業績で、日本化学連合主催の「化学コミュニケーション賞2021」を受賞されました(1/18発表)。大変におめでとうございます。

「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2022
Shokabo-News No. 374(2022-1)に掲載 

松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】 
ノンフィクション・ライター。1962年東京都出身。現在、日経ビジネスオンラ イン「Viwes」「テクノトレンド」などに不定期出稿中。近著に『母さん、ごめん。−50代独身男の介護奮闘記−』(集英社文庫)がある。その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数。
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura


※「松浦晋也の“読書ノート”」は、裳華房のメールマガジン「Shokabo-News」にて隔月に連載しています。Webサイトにはメールマガジン配信後になるべく早い時期に掲載する予定です。是非メールマガジンにご登録ください。
   Shokabo-Newsの登録・停止・アドレス変更



         

自然科学書出版 裳華房 SHOKABO Co., Ltd.