第18回 本 〜先輩からの贈り物〜
大野 泰生・谷口 隆
T:「数学者的思考回路」も丸 $2$ 年.予定の最終回を迎えることになりましたね.
O:依頼をもらったときは,こういった連載ができるかどうか,半信半疑でしたね.いろいろな経験をしながら今回に至りました.
T:読者の方から連絡もいただきましたね.
O:読者の反応というと,谷口さんは執筆者紹介に挙がっている「びっくり数学島」で,経験があったのではないですか.
T:そうですね.数学関係者のほか,昔の知人,また思わぬ方からご連絡をいただいてビックリしたこともありました.
O:「数学者的思考回路」では,そういった方々に加えて高校生やアイドルグループのファンらしき方からも嬉しい反応がありましたね.
◇ ◇ ◇
T:大野さんの紹介に挙がっている『白熱!無差別級数学バトル』は,執筆陣の意欲とこだわりが感じられる本ですね.書店の読者コメントには「数学好きにはモッテコイな本」とか「パスカルの三角形を $2$ を法として書くとシェルピンスキー・ガスケットが出てくるのがおもしろかった」などと書いてありました.
O:ありがとうございます. $16$ 人の執筆メンバーそれぞれが丹精込めた問題に,詳しい解説と多彩なコラムを加え,全員で議論をさんざん積み重ねてようやく仕上がった,構想 $3$ 年余の本です.
T:手応えのある問題が多いですよね.コラムも楽しくて,問題に疲れるとそこばかり読んでしまいそうです.
O:それで充分だと思いますよ.問題は頭の片隅に置いておくんです.
T:ふとしたきっかけで思い出すことがありますし,また長く置いておくと,知らず知らずのうちに考えが醸成されたりもしますからね.
O:どこでどんな出会いがあるかわからないし,どんな刺激を受けて“夢中”へのスイッチが入るかもわかりませんからね.
◇ ◇ ◇
T:一見関わりがなさそうに見えていたことが,実はしっかり繋がっていて驚く,なんてことは研究ではときどき起こりますよね.また実際,数学の研究をしていると,没頭するばかりではなく,数日離れてから戻ってみると違った視点ができて,進展したりもしますからね.
O:そうですよね.その視点の取りかえに,ある種の冷却期間が必要なことがありますよね.近くから見ているばかりでは見えなかったり,遠くから見ているばかりでも見えない.手に取って,近づけたり遠ざけたり,いろいろ角度を変えて見たり,またしばらく放置したり.
T:しっかり把握できるまで何度も付いたり離れたりを繰り返すわけですね.
O:谷口さんは以前伺った,ラーデマッヘル&テープリッツ『数と図形』という本で,そういった熟考法を身に付けられたんでしょうか.整数問題・平面図形・グラフ理論などのほか,カントールの集合論や四色問題など未解決も含め数学史上大きな問題になったものも入っていて,バラエティ豊かな本ですね.
T:いろいろ経験はあったと思いますが,ひとつの要素はそうでしょうね.たとえば訳者はしがきにこんな記述があります.
《本書の各項目は,理解すれば極めて面白いけれども,漠然と文字を追っただけではこれほど無味乾燥なものはないであろう.訳者は本書の全部を好い加減に読むよりは唯一項目を根本的に理解するまで読むことをお薦めする.》
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O:まさしく,谷口さんの書かれた数学書の読まれ方が凝縮されているんじゃないでしょうか.
T:言われてみると,確かにそうですね.高校生の頃にこのはしがきに影響を受けた僕は,ひとつの項目に絞ってじっくり時間をかけて読み,充分に考えて理解していく,という読み方をここで覚えたのかも知れません.これは現在に至るまでずっと生きていると思います.
O:本との出会いは,ひとつにはそういった言葉との出会いですね.
◇ ◇ ◇
T:大野さんもそういう経験が?
O:僕は『数論序説』ですね.中身も個性的でとても興味深いのですが,特に好きなのはあとがきです.
《誰にもわからないことが未来としても ひとまず自分にわからないものが自分にとっては未来である.》
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著者の小野孝先生が,日頃手にされている文献を紹介されたところに添えられた,研究に関する短文中の言葉です.何が知られていて何が知られていないか,というのは重要なことですが,ひとまず自分の好奇心と感覚を信じて前進してみなさい,と背中を押してもらえました.実際,そうやって進むうちに広がりが出て,当初の想像を超えた話になることがあります.
そして,努力の末に自力で何かを見つけて,それと同じものが過去に知られているかどうかを調べるときの心の持ちようが,短文の最後に書かれています.
《もし誰かがすでにやっていたとしてもそれは失望ではなく,過去または現在の意外な人物に親近感を体験することになるし,いくら試みてもあなたと同じものを見出すことができなければ,その問題はあなたが初めて見つけた問題になる.》
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とても励まされる言葉だったので,大判の紙に書いて勉強机の前に一時期貼っていました.それから $15$ 年ぐらい経って,小野孝先生に会った際にそのことと感謝をお伝えしたら,「ああ,あのあとがきは,あなたのような数学を志す若者のために書いたんですよ」と仰っていました.
T:先輩から後輩への贈り物だったんですね.
◇ ◇ ◇
T:雑誌「大学への数学」のインタビュー記事で出ていましたが,多湖輝さんの『頭の体操』という本にも子供時代に刺激を受けたそうですね.それを伺って僕も今回『頭の体操BEST』というセレクションを読んでみました.全部が数学の問題ではないですが,そういう問題も含めて,なんか今の大野さんの数学スタイルに影響があったのかなぁと感じました.
O:ベスト版があるのですね.知りませんでした.たしかに,『頭の体操』の中で当時の僕に刺激を与えた問題は,ちょっと意表を突くような問題というか,「あっ」と驚かされつつも愉快な問題というか.僕にとってずっと憧れの対象です.それが今も,僕の思考(嗜好?)の底流にあるとすればおもしろいことだと思います.谷口さんの場合そういった思考への影響は,「チャイクロ」という子ども向け絵本ですか?
T:このシリーズをご存知でしたか?
O:いえ,谷口さんから書名を教わって,さっそく探して読みました.
T:僕は子供のころ,かなり気に入って愛読していた記憶があります.子育てで再び目にしたのですが,なんか,僕はこの本にそれなりに影響を受けたのかもしれないなぁ,とそのとき思いました.作者の高田恵以さんの随想文に次のような一節があります.
《何よりも難しかったのは,「チャイクロ」の表現主体である絵の制作です.知をベースにした事柄を子供の感覚にひびくように,美しく優しく伝えることの難しさを痛感しました.「上手ぶった絵よりも,見ていて心が優しくなるような絵が欲しい」「何故だろうと考える所を残して欲しい」……構図のマナーやページ転換への心配りなど,考えると無理難題を出してスタッフたちを困らせていたようですが,「チャイクロ」は何とか上品で優しさのある本に仕上がりました.》
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これを読んで,作り手の読み手に対する心配りに嬉しくなりました.このような心配りが本に生命を吹き込むのかな,と思います.
O:安易に問題や答えが与えられるのではなく,自ら不思議さを感じ取って考え始める仕組みになっているところが特に,楽しくて良いですね.
◇ ◇ ◇
T:さて,この連載も第 $18$ 回の締めを迎えました.
O:連載初回からいろいろな出来事があって, $2$ 年間,貴重な経験がたくさんありましたね.聞いたこともない“共著コラム”の執筆にも挑戦しましたね.コラムは普通一人で書くものだろう?って指摘を怖れもせず.
T:最終回にあたって,我々の少年時代を振り返ってみようと思ったわけですが,それぞれに愛着のある本との出会いがありましたね.以前紹介したインド人数学者ラマヌジャンも,『数学要覧』という本との出会いが人生の転機でした.今回は数学に関連するものを話題にしましたが,実際はそれ以外の本からの刺激も,数学に影響しているであろうことは感覚的に明らかだと思います.あとがきやはしがきが話題の中心になったのも,意外でおもしろかったですね.
O:こういった思い出の本はもちろん記憶から消えることがありませんし,いま手にとっても表紙やページの感触から,当時の感覚が即座に呼び覚まされます.あとがきやはしがきなどとの出会いも含め,ネット上の解説記事やweb事典ではなかなかこうは行きませんね.本としての実体や手ざわり,そして編集作業による高い完成度が,とても大事なんだな,とつくづく思います.
T:我々の算数・数学の原点のひとつは,こういった本を通した先輩たちとの遭遇なのかもしれませんね.先輩たちからの贈り物を受け取った,という.
〔とりあげた本〕
●『数と図形』はH.ラーデマッヘル&O.テープリッツ 共著(山崎三郎・鹿野健 共訳),日本評論社刊($1989$).現在は「ちくま学芸文庫」(筑摩書房)の $1$ 冊.
●『数論序説』は小野孝 著,裳華房刊($1987$).現在はオンデマンド印刷・製本による「復刊」が入手可能.
●『頭の体操』は多湖輝 著, $1966$ 年刊.その後シリーズ化され,文中紹介のものは現在の「第 $1$ 集」にあたる.全 $23$ 集のうち「光文社知恵の森文庫」で第 $1$ 集から第 $10$ 集までが入手可.ベストセレクション版である『頭の体操 BEST』『頭の体操 BEST 2 』も店頭に並ぶ.
●「チャイクロ」は $1970$ 年刊行開始の「こども百科絵本」シリーズ.高田恵以 構成・編著,ブックローン発行.現在は,BL出版から「新装版」全 $8$ 巻セットが入手可能.
(2017/8/2掲載)
(イラスト:マエカワアキオ)
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