第51回 お互い承知で利用し合う社会階層の上と下
『昭和史の隠れたドン −唐獅子牡丹・飛田東山−』
(西まさる 著、新葉館出版、2020年刊)
前回に続いて、飛田東山こと飛田勝造(1904〜1984)の話だ。飛田の評伝はないかと探したら、第38回で取り上げた『中島飛行機の終戦』の著者、西まさる氏が昨年、この本を上梓していることを知った。他に類書はない。日本近現代史にフィクサーとして登場する人物は少なくない。が、飛田がここまで埋もれているとは思わなかった。やったことからすれば、類書が数冊以上あってもおかしくないのだが。
西氏は『中島飛行機の終戦』の執筆過程で飛田に興味を持ち、飛田の遺族から資料の提供を受けて、本書を執筆した。
ところが、この本でも分からないことが多い。そもそも飛田自身が「社会大学」と語る獄中生活。複数回の服役があったことは間違いない。が、一体飛田はいつどんな罪状で収監され、どれほどの期間をどこの刑務所で過ごしたのか。こんな基本的なことが分からない。さらに、飛田の人生を彩る光と影のうち、主に政治・行政に関係する影の部分についてもわからないことだらけだ。むしろこの本は書いていないことを通じて「なにが分からないか」を示しているとすら言える。
簡単に、飛田の人生の光の部分を追ってみよう。
彼は1931年(昭和6年)に飛田組を立ちあげる。仕事は「土木建築請負、沿岸荷役運送」。必要に応じて日雇い労働者を集め、組織して力仕事を請け負う稼業だ。軍隊除隊後、極限の極貧を体験した飛田は、この稼業を「明日をも知れぬ生活を送る日雇い、そしてその家族に仕事を与え、人並みの生活を送れるようにする仕事」と位置付ける。
1933年(昭和8年)、ドイツからハーゲンベックサーカス団が来日する。飛田は、この来日興行の動物などの荷揚げを請け負ってチャンスを掴む。サーカス団招聘が社団法人・工政会の開催した「万国夫人子供博覧会」の一環であったことから、彼は工政会会長にして内務省・東京土木所出張所所長の真田秀吉(1873〜1960)の知遇を得たのだ。
工政会は、産業資本家や技術者の社交団体として1918年に設立された団体で、多くの官僚やメーカー首脳、技術者などが所属し、さまざまな建白書を政府に提出するなど、土木・工業面で大きな影響力をもった団体だった(その後いくつかの団体の合併を経て、現在は一般財団法人 日本科学技術連盟となっている)。真田は、土木工学者であり内務官僚でもあり、淀川や利根川の改修、関東大震災からの復興工事など、国家的大事業をいくつも経験した土木の世界の大立者だ。
飛田はハーゲンベックサーカス団の仕事を通じて、国家を動かす土木エリートとのコネクションを得たのである。
明治から昭和にかけて、国家の行う巨大土木工事は、同時に国家の枢要を占めるエリートと社会最下層との接点でもあった。機械化が進んでいない土木の現場は、人力に頼るしかない。エリートがどんなに巨大なビジョンを作り、国家予算を獲得しても、実際の工事を行うのは、差配する親分衆から搾取されつつ「一日なんぼ」の給金で汗水垂らして働くしかない日雇い労働者だ。
エリートには直接、日雇い労働者をハンドリングする能力はない。日雇いを集めて指示を出し、労働力として組織するのは、飛田のような親分だ。そして飛田はけっして馬鹿ではない。むしろその行動を追っていくと、図抜けた地頭の良さが見えてくる。ただ正規の教育を受けることができなかったというだけだ。
真田のようなエリートにとって、飛田のような頭の良い親分は、話が通じやすい存在であったことは間違いない。親分衆がいなければ描いた構想が実現しないのならば、エリートにとって親分は、頭が良くて話の通りやすい者であるほうがずっと良い。こうして真田を通じて飛田の人脈は広がっていく。
1937年(昭和12年)、彼は奥多摩に建設が決まった小河内ダムの建設現場を取り仕切ることになる。仕切るにあたって土木エリート達とのコネクションが物言ったことは想像に難くない。飛田は奔走し、実際ダム建設の前段階である道路工事は予定よりも早く完成させた。が、ダム建設はさまざまな事情で頓挫してしまう。このとき、飛田はまさに度胸と胆力で東京府から当時の金で12万5000円を補償金として引き出すことに成功。その金全部を集めた500人余りの日雇いたちに分け与えて現場を解散した。
飛田という人物を特徴付けるのは、弱者救済としての口入れ稼業、それを支える地頭と度胸の良さ、そしてこの金離れの良さだ。自分で溜め込むことなく、ぱっと人に分け与える。彼の人生は、弱者に分け与えることで、さらに金と人脈が集まってくることの連続なのだ。
彼は1936年(昭和11年)の入獄時に、水戸藩の国学者・藤田東湖(1806〜1855)を知り、傾倒した。東湖の思想は極端な尊皇攘夷で、人々に天皇中心の「正しい道」に献身することを求める。東湖の思想は「日雇いにまともな生活を」と願う飛田にとって、自分の願いを国家という「大きな物語」へと接続する役割を果たしたとみるべきだろう。
そして、ファシズムへと傾倒する日本社会が、飛田に味方する。ファシズムとは国家のリソースを総力戦のために総動員する思想だ(第31回参照)。国家のすべてを最高の効率で戦争遂行の為に組み上げていくなら、土木の礎である日雇いたちもまた、最高効率で国のために働かねばならぬ。人を最高効率で働かせるために必要な条件は何か。搾取のない十分な額の給金と適切な休息に安全に配慮された労働環境──なんのことはない、日雇いたちがこれまでいくら望んでも得られなかったものばかりだ。日雇いに人らしい生活を与えることは、国家のためになることでもあったのだ。国家=天皇への滅私奉公! 東湖先生もそう言っているではないか!!
1941年(昭和16年)から、飛田は日雇いを統合する労働組合的組織の結成に動く。ここで彼は官僚組織と頭脳戦を繰り広げるのだが、委細は本書を読んで欲しい。翌年、海軍の管轄下に社団法人・扶桑会を設立。戦争遂行にあたって日雇い労働者の能力を最大限に引き出すことを目的とした組織である。そのためには、日雇いの社会的地位向上が必須だ。
こうして、飛田の「弱者を助ける」気質と藤田東湖の水戸国学は、ファシズムの目指す「すべての国家リソースを総力戦に振り向ける」国家体制の下、「弱い者を助けることでその力を最大限に引き出して国に尽くす」労働組織として統合され、形を得たのである。同時に扶桑会設立により、飛田は全国140万人の日雇い労働者のトップに立つこととなった。
かくして飛田は、戦時中のありとあらゆる土木の現場に関与することになる。例えば長野県松代市の大本営施設は、飛田が確保した労働力によって建設されたのだった。
敗戦後、飛田は東京都・青梅に移り住み、奥多摩の観光開発に力を入れるようになる。小河内ダム建設時に知った奥多摩の小作農の窮乏に同情し、またダム建設に参加したことで彼らの貧困化を後押ししてしまったことに対する贖罪意識があったからだという。奥多摩を豊かにしなくてはいけない。そのためには観光開発だ、という論理である。と、同時に土木労務者の大親分として隠然たる権力をもち、政界官界に影響を及ぼしつづけた。建設省の官僚は、定期懇談会という名目で飛田との接触を欠かさなかったほどだ。
……ということは、東海道新幹線も東京オリンピックも東名・名神高速道路も首都高速道路も大阪万国博も新東京国際空港も、飛田がなんらかの関与をしたな、と推察できるのだが、本書にはそのあたりの記述はない。ただ、房総半島南部の有料道路「房総フラワーライン(南房総有料道路)」建設の経緯を記して、飛田の権力行使プロセスの一端を明かしているのみである。
1957年に牧野吉晴著『無法者一代』(東京文芸社)、1959年に富沢有為男著『侠骨一代』(講談社)と、飛田の前半生を描いた小説が出版されて評判になる。その結果、彼をモデルとした映画「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」(1966年1月公開、佐伯清監督、主演:高倉健)が制作されて彼の名前が社会の表に出ることになった。彼は町奴を自称し、ヤクザは好まなかったそうだが(その一方でヤクザとの付き合いもあった)、この映画化は喜び、奥多摩からバスを仕立てて友人知人とともに都心に観に出かけたという。
このような光の部分とは別に、飛田の履歴にはぼっこりと欠落した部分があり、これが影の部分と繋がっているのであろうと思わせる。まず、1934年(昭和9年)から1年ほど、朝鮮半島における日本鉱業の銀鉱山施設建設の仕事を請け、当時日本の植民地だった朝鮮半島に赴いている。これが具体的に何をしていたのか、まったく分からない。ただ、この時に真田秀吉から「朝鮮半島に行くなら」と松室孝良・陸軍大佐(1886〜1969)に紹介され、松室と意気投合したことが分かっている。
次いで、小河内ダム工事から撤退した後、1939年(昭和14年)12月から、松室に依頼されて中国に赴き、民衆宣撫工作に従事している。この時期のことも分からない。わずかに南京と上海で大変危険な日々を過ごしたと書き残しているだけである。
ここからは想像の翼を拡げよう。
1940年(昭和15年)、中国から戻った飛田は、自費で故郷の茨城県・大洗に藤田東湖の銅像を建立している。西氏は、中国に渡る直前に小河内ダム工事から撤退してすっからかんになっていた飛田が、どうやってこの金を手に入れたのか。陸軍からの報酬にしては多すぎる、と書いている。
これは比較的容易に想像できる。彼は陸軍の裏金を受け取ったのだろう。そう、中国大陸で日本陸軍自ら阿片を売りさばいて作った莫大な裏金である(第26回参照)。裏金の使途が乱脈を極めていたというのは、陸軍参謀の岩畔豪雄が証言している(第43回参照)。松室からぽんと大金が飛田に渡ったとしても、けっしておかしくはない。
そもそも、なぜ陸軍は飛田を中国大陸における民衆宣撫工作に起用したのかを考えると、もっと深い話が見えてくる。陸軍は中国大陸でもさまざまな土木工事を行っており、そのための労働力として現地の苦力を集めて使っていた。普通に考えれば、日本で日雇い労務者を束ねる飛田に、苦力を束ねて戦力化する役割を期待したということだろう。おそらく飛田の宣撫工作への起用には、朝鮮半島での彼の実績が物言ったはずだ。
ところで、当時、苦力を集めるには塩と阿片の供給が必須だった(第27回参照)。飛田が中国大陸で過ごした「危険な日々」とは──それがどんなものか具体的には分からないが──なにか阿片絡みだったのではなかろうか。それ故、彼は詳しく語ることを避けたのではないだろうか。
中国滞在時に飛田が、後に政界のフィクサーとなる児玉誉士夫(1911〜1984)を部下として使っていたという話が本書に出てくることで、話は一層複雑になる。1939年(昭和14年)時点の児玉は、まだ二十代後半の行動右翼崩れの大陸浪人に過ぎない。彼は1941年以降、海軍航空本部の物資調達を担当するようになり、その活動は通称「児玉機関」と呼ばれるようになる。児玉機関は、阿片も扱っていたことが分かっている。児玉が中国大陸における阿片ビジネスの要諦を身につけたのは、ひょっとして飛田の部下として働いていた時ではなかったか──。
児玉と飛田の付き合いは戦後も続いたということから、飛田が必ずしも今のクリーンという概念に沿う人物でなかったことも見えてくる。というのも児玉は大変に強欲で、戦後彼をエージェントとして利用しようとした米CIAも、その強欲さに手を焼いていたことが、公開された米機密文書から分かっているのだ。およそ飛田が好むタイプではない。弱者救済が第一の飛田が、児玉との付き合いを続けたということは、彼がその性格に目をつぶるだけの利用価値を児玉に認めていたということに他ならない。
児玉機関が溜め込んだ裏金は、戦後そのまま隠匿され、その一部が1954年に鳩山一郎(1883〜1959)を中心に結成された日本民主党に政治資金として流れ込む。翌年、日本民主党と自由党が合同して自由民主党が結成され、1957年には日本民主党幹事長を務めていた岸信介(1896〜1987)が内閣総理大臣に就任する──。
商工省の官僚だった岸は、1936年(昭和11年)10月から1939年(昭和14年)10月まで、満州国に出向して経済計画の立案に力を発揮した。ところで、岸はこの満州時代から出所不明の資金を調達するようになった。その金を使い、岸は1942年の衆議院選挙、通称「体制翼賛選挙」に出馬して当選。政治家としてのキャリアを開始する。彼は満州を離れるにあたって「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」と語っている──。
阿片に起因する裏金が中国大陸で渦巻き、それが戦後日本に政治資金の形で流れ込んで政治の潮流を作っていく──その末端に、どうも飛田も連なっているように思える。
ここまで、ただのヨタ話として片付けるには、役者も道具立ても揃いすぎている。とはいえ、これは裏付けのない想像に過ぎない。
ちなみに飛田は、岸信介や中曽根康弘(1918〜2019)などとも親しく付き合っている。中曽根がレーガン米大統領との外交に使用した奥多摩の別荘「日の出山荘」は、購入にあたって飛田が仲介しているのだ。
著者は、それなのに岸も中曽根も、飛田との付き合いを一切公表していないと不思議がる。が、これも容易に理解できる。岸や中曽根から、飛田は「政治家が関わっていることが公になると政治生命に関わる事態になる人物」と認識されていたのだ。おそらくは「児玉誉士夫の同類」といったところだったのではなかろうか。岸の言い方を借りるならば「濾過機」、あるいは濾過機の付属物といったところだろうか。逆に飛田もそのことを十分に承知した上で、岸を利用していこうとしたのだと、私には思える。
以上、およそ書評らしくない文章になってしまった。本書の巻末には「続刊に続く」とある。飛田に関する生臭い話はこれから執筆・出版するであろう続刊に譲って、まずは彼の人生の光に満ちた部分を描いたということだろう。
続刊が楽しみだ。ものすごく楽しみだ。一刻も早く読みたい気分である。
【今回ご紹介した書籍】
『昭和史の隠れたドン −唐獅子牡丹・飛田東山−』
西まさる 著/四六判/322頁/定価1650円(税込み)/2020年9月刊/新葉館出版/
ISBN 978-4-8237-1036-0
https://shinyokan.jp/netstore/products/detail/1792
「松浦晋也の“読書ノート”」 Copyright(c) 松浦晋也,2021
Shokabo-News No. 371(2021-9)に掲載
【松浦晋也(まつうらしんや)さんのプロフィール】
ノンフィクション・ライター.1962年東京都出身.現在、日経ビジネスオンラ
イン「Viwes」「テクノトレンド」などに不定期出稿中。近著に『母さん、ごめん。−50代独身男の介護奮闘記−』(日経BP社)がある.その他、『小惑星探査機「はやぶさ2」の挑戦』『はやぶさ2の真実』『飛べ!「はやぶさ」』『われらの有人宇宙船』『増補 スペースシャトルの落日』『恐るべき旅路』『のりもの進化論』など著書多数.
Twitterアカウント https://twitter.com/ShinyaMatsuura
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