第2回 嵐に飛ばされる研究集会
大野 泰生
一般に数学者は出張をよくする.「数学者は研究室や自宅の屋根裏部屋に引きこもっている世間知らずに違いない」なんて考えている方には違和感のある話かもしれない.しかし実際は,数学の発展のために多くの数学者がたくさんの出張をしている.学会をはじめとする研究集会に参加するための出張もあるし,研究上の議論あるいは共同の研究作業を推進するために仲間の研究者のもとへ出張する場合もある.
不思議なことに,数学において研究者同士が顔を合わせて黒板や紙に図や数式を書きながら議論することは,研究に強い推進力を与えてくれる.メールやチャットあるいはテレビ電話などでもある程度の情報交換や研究進展は図れるのだが,これらにくらべ「“会って話す”効用は絶大だ」というのが多くの数学者の実感だと思う.
このことは簡単に証明できないが,おそらく,同じ場所で同じ空気を吸って,自然な視界で同じものを眺め,黒板や紙に数式やイメージを書きながら,そしてお互いの目を見ながら意見交換することで,相手に伝わる細かい感覚やニュアンスが格段に増えるからだと思う.そのような細かい情報を含んだ密な議論の中で一瞬垣間見えた事実から,往々にして問題解決の糸口がつかめたり,思いがけない論理の広がりを得たりできるのだ.そのため,忙しくても疲れていても数学者は出張をし,研究テーマを共有する数学者に会って直接話す場を得たいと思うのだろう.
研究成果が上がれば,今度はそれを発表し,より広い数学コミュニティで共有する.学会や研究集会で講演して成果を述べ,広い範囲の数学者からの意見や疑問を受け取る.そしてそれを更なる研究進展の材料にしていくのだ.研究集会はまた,その場で発表しない参加者にとっても,研究の最新情報を得て自らの研究テーマへの刺激を受ける機会になっている.数学の研究集会は,国内外で常時たくさん開かれていて,数学者にとって研究のために欠かせない大切な場になっているのだ.
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それゆえに数学者は出張をよくする.そして出張には宿の予約がつきものだが,宿探しと予約は数学者本人が行うことになる.
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今年5月のニュースに,「日本遺伝学会,突発的な“嵐”で日程変更」というタイトルがあった.このタイトルを見て即座に内容を想像できた方はそう多くないだろう.今年9月に東北大学を会場として計画されていた日本遺伝学会の日程の一部が,宮城県のスタジアムで開催されるアイドルグループ嵐のコンサートと重なり,仙台市および周辺地域の宿泊施設の予約が実質的に不可能となったため,日程変更を余儀なくされた,というのが内容である.“嵐”で研究集会が“飛ばされた”というわけだ.同記事には,宮城教育大学を会場として計画されていた日本質的心理学会も,同じ理由で10月に予定変更されたとある.
そうなのだ.ドーム球場をはじめとした大型スタジアムや野外コンサート施設での巨大ライブなどの登場で,大都市であっても周辺の宿がことごとく満室になってしまうことがたびたび起こっている.
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数学者は,日本数学会という大きな学会以外にもたくさんの研究集会を各地で開き,情報共有と研究進展を常時図っている.札幌・仙台・東京・名古屋・京都・大阪・福岡などでの開催はとくに多いわけだが,これらの多くにドーム球場があり巨大ライブがたびたび開催されている.
研究集会を計画する際,早い場合は開催の2年前ごろから取り掛かる.数学界のスケジュールと(海外からを含む)参加予定者の都合を考慮するだけでも日程を決めるのに結構な困難を伴うが,そうやって決めた日程がうっかり巨大ライブとかぶっていたりすると,調整に調整を重ねてきた計画が目も当てられないことになってしまうのだ.
参加予定者はホテル予約サイトでの空室探しに隣県まで地域を広げてさまよい,主催者は一旦発表しているスケジュールや開催地を変更すべきかの判断に苦悩する.海外からの参加予定がある場合はなおのこと困難な状況となり,おびただしい数の英文和文のメールが飛び交うことになる.日程変更になれば,予約していた会議場も個々の航空チケットも変更になり,参加をあきらめる人も出てきて集会の規模にまで影響がでる.まさに大混乱である.
実際,九州大学で計画されていた私も参加すべき研究集会が過去に2度,福岡ドームでの嵐のコンサートとかぶって飛ばされた.このときは,さんざん探して予約できた宿はお隣の熊本県という状況で,さながらホテル難民であった.日程変更がなければ私は毎日新幹線で通ったのだろうか.
先日も,名古屋で計画されていた幾何学方面の研究集会が,嵐のコンサートと重なったため,急遽東京に会場を移すことになった.さらには最近,私も計画に携わっている名古屋大学での研究集会も,名古屋ドームでのEXILEのコンサートと日程の一部が重なってしまった.海外から来る参加者には宿舎を確保できたが,国内関係者には今まさに“注意報”を流しているところである.
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数学者に研究集会はつきものである.そして最近では,流行のタレントやアイドルの名前を把握し,そのコンサートやイベントの有無までも調査しておかなければ,安心して研究集会の計画もできない.
世間知らずではとてもやっていけないようだ.
(2015/10/7掲載)
(イラスト:マエカワアキオ)
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