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第1回 数学書の読まれ方谷口 隆
専門的な数学書の出版を手がける出版社は何社かあるが,なかでも裳華房は,私たち数学者にとってはもっともお世話になっている版元のひとつである.右下にあるリンクをたどっていくと,多くの定評ある本の名が出てくる.個人的には,私も『数論序説』(小野孝)で整数論に入門させてもらった.このような専門書は数学者の活動の支えになっている.もし裳華房が突如消失でもしたら(?),私たち数学者としてはさぞ困ったことになるだろう.
ところでそのような専門的数学書,実は,一般的な感覚からするとやや変わった,風変わりな読まれ方をしている.今回はこのことをちょっとお話してみたい. ◇ ◇ ◇ 数学用語や数式を使うと,いろいろな考えや概念を正確に短く集約することができる.ピタゴラスの定理を例にとってみよう.この定理の中心にあるのは $a^2+b^2=c^2$ という短い式だ.これぐらい短ければ憶えておくのに苦労しないし,便利に使える.でもはたして,短いから簡単だといえるだろうか? 思い返すと,これは中学校も後半で教わる相応に高度な内容だ.数を数え始めた幼な子に分かるような内容でないことは, $a^2$ とは何か説明しようと考えただけで明らかだろう. $a^2+b^2=c^2$ という式は,ギッシリと内容の詰まった高純度・高密度の結晶のようなものではないだろうか.高校では余弦定理 $a^2+b^2-2ab\cos C=c^2$
を学ぶ.ここで $C=90^\circ$ とすると $\cos C=0$ となってピタゴラスの定理と同じ式になり,余弦定理はピタゴラスの定理を拡張・発展させたものだと分かる.1行で表現できるから,このような関係も明瞭に捉えられる.
こんな分量なら,その含意は何か,その先には何があるのか,といろいろなことに目が向けられるようになる.正17角形が作図できても実用には供さないし,近似的には分度器やコンピューターを使うほうがずっと簡単に作図できる.しかし,ここで問題になる数学的な仕組みを端的に捉えようとして生み出された「群」という概念はその後,現代物理学でも決定的な役割を果たし,今日の社会に大きな影響をもたらすことになった. ◇ ◇ ◇
要点をくっきりと描き出したい.ならクドクド書かず,重要な点だけを簡素に明確に表現しよう,あとはその繋がりをこれもなるべくアッサリ表しておこう,となってくる.書き手のそんな意識が全体に行き届くと,本は高密度になって読むのが遅くなる.整理簡約の道のりもそれなりに追体験して納得しないと,分かった感じにはなれない.また,そういう本では不必要なことはほとんど書いていないということにもなるので,キチンと隅まで理解したい場合は分からない箇所を残すわけにいかない──ということで,分からない箇所を潰していく作業が必要で,それを気長に根気よくやる.
そんなこんなでいつの間にやらずいぶん時間がたってしまう.でもどうやら,短くまとまっているから結局のところ頭に収まりやすいらしい.ピタゴラスの $a^2+b^2=c^2$ のように.
(2015/9/2掲載,9/18レイアウト更新) ご感想を電子メールでお送りいただければ幸いです.送付先アドレス info@shokabo.co.jp
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